〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/05/19 (月) 夕 顔 (十八)

かろうして、鳥の声はるかに聞こゆるに、命をかけて、何の契りにかかる目を見るらむ、わが心ながら、かかる筋におほけなくあるまじき心の報いに、かく来 (キ) し方行 (ユ) く先の例 (タメシ) となるぬべきことはあるなめり、忍ぶとも、世にあること隠れなくて、内裏にきこしめさむをはじめて、人の思ひ言はむこと、よからぬ童べの口ずさびになるべきなめり、ありありて、をこがましき名をとるべきかなと、おぼしめぐらす。
からうして、惟光の朝臣参れり。夜中暁といはず、御心に従へるものの、今宵もさぶらはで、召しにさへおこたりつるを、憎しとおぼすものから、召し入れて、のたまひいでむことのあへなきに、ふとももの言はれたまはず。右近、大夫 (タイフ) のけはひ聞くに、はじめよりのこと、うち思ひ出でられて泣くを、君も堪へたまはで、われ一人さかしがり抱き持ちたまへけるに、この人に息をのべたまひてぞ、悲しきこともおぼされける。とばかり、いといたく、えもとどめず泣きたまふ。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

ようやく、鶏の声がはるかに聞こえてきました。
「いったい何の因縁でこんな命がけのような憂き目にあうのだろう。自分の心からとはいえ、色恋に関することで、だいそれた罪深い秘密の恋を抱いている報いとして、こうした過去にも将来にもない話の種にされそうな事件が起こったのだろう。いくら隠しても、この世の出来事は隠しきれず、いつかは、父帝のお耳に達するのはもちろんのこと、世間の人々が面白がって何かと取り沙汰する噂は、はしたない京童の口の端にのぼせられるにちがいない。あげくのはてには、愚かしい汚名を蒙ってしまうのか」
と、あれこれ思いめぐらせていらっしゃるのでした。
ようやく惟光が参上しました。日頃は、真夜中といわず早朝といわず、いつでも源氏の君のお心のままに動く者が、今夜にかぎってお側に伺候していなくて、お召しにまで遅れてしまったのを、許せないと、源氏の君はお怒りでしたが、ともかくお側にお呼びこみなさいました。
さて、昨夜の事の顛末をお話なさろうとすると、それがあまりにも夢のようなあっけなさに、すぐにはものもおっしゃれません。
右近は、惟光が参上したらしいと聞くと、夕顔の女君と源氏の君の関わりのはじめからのことが、一挙に思い出されて泣き出しました。源氏の君もこらえきれなくなられて、今まで御自分ひとり気丈ぶって、女を抱きかかえていらっしゃいましたが、惟光の顔をご覧になるなりほっとお気がゆるみ、悲しみがこみあげていらっしゃいました。涙をとどめることも出来ず、しばらくさめざめとお泣きになられます。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ