〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/05/19 (月) 夕 顔 (十六)

紙燭持て参れり。右近も動くべきさなにもあらねば、近き御几帳 (ミキチョウ) を引き寄せて、 「なほ持て参れ」 とのたまふ。
例にならぬことにて、御前近くもえ参らぬつつましさに、長押 (ナゲシ) にもえのぼらず。
「なほ持て来 (コ) や、所に従ひてこそ」 とて、召し寄せ見たまへば、ただこの枕上 (マクラガミ) に見えつる容貌 (カタチ) したる女、面影に見えてふと消えうせぬ。
昔物語などにこそかかることは聞け、と、いとめづらかにむくつけけれど、まづこの人いかになりぬるぞと思ほす心騒ぎに、身の上も知られたまはず、添ひ臥して、 「やや」 と、おどろかしたまへど、ただ冷えに冷え入りて、息は疾く絶え果てにけり。言はむかたなし。
たのもしく、いかにと言ひ触れたまふべき人もなし。法師などをこそは、かかるかたのたのもしきものにはおぼすべけれど、さこそ強がりたまへど、若き御心にて、いふかひなくなりぬるを見たまふに、やるかたなくて、つと抱きて、
「あが君、生きいでたまへ。いといみじき目見なせたまひそ」 とのたまへど、冷え入りにたれば、けはひもうとくなりゆく。
右近は、ただあなむつかしと思ひけるここち皆さめて、泣きまどふさまいといみじ。
南殿 (ナンデン) の鬼の、なにがしの大臣 (オトド) をおびやかしけるたとひをおぼしいでて、心強く、
「さりとも、いたづらになり果てたまはじ。夜の声はおどろおどろし。あなかま」
といさめたまひて、いとあわたたしきに、あきれたるここちしたまふ。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

その時、滝口の男が紙燭を持ってきました。右近もほとんど気を失い、動ける様子も有りませんでしたので、源氏の君は近くにある几帳をお引き寄せになられて、
「もっと近くへ持ってまいれ」
と、お命じになります。お側近くへまいるなど例のないことなので、男はとても近寄れず御遠慮して、縁から室内へも上がることができません。
「もっと近くへ持ってくるのだ。遠慮も時と場合による」
とおっしゃって、紙燭を取り寄せて女君をご覧になりますと、その枕上に、あの夢に見たときと同じ顔をした女が、幻のように浮び、ふっとかき消えてしまいました。
昔の物語などには、こういう話は聞いているものの、こんな異様なことが現実におこることは只事でなく、気味が悪くてなりません。
けれどもとにかく、この人がどうなっているかと、心配で動揺なさり、御自分に害が及びことなどお考えになるゆとりもなく、そって側に添い寝しておあげになり、
「ねえ、どうしたの」
と目を覚まさせようとなさいました。けれども夕顔の女は、ただもうすっかりひえびえと冷たくなってしまっていて、息はとうに絶え果てていたのでした。もはやどうしようもありません。
こんな場合、どう処置をとればいいのか、相談できる頼もしい人もおりません。法師などがいてくれたら、こんな時に頼りになるのにとお思いになりますけれど、あれほど強がっていらっしゃったものの、何としてもまだお若いので、目の前で女が、はかなくなられたのをご覧遊ばしては、やりきれなくなられて、冷たい女の体を、しっかり抱きしめられて、
「ねえ、お願いだから、どうか生きかえっておくれ、こんなつらい目を見させないでおくれ」
と、悲しまれるのですが、女の体はもう冷えきっていて、次第にうとましい死相まであらわれてまいります。
右近は、ひたすら恐ろしいとばかり脅えていた気持ちも、すっかり冷めはてて、ひた泣きに泣き惑う様子もあわれなものでした。
昔、宮中の南殿の鬼が、何とかいう大臣を脅かした時、かえって大臣に叱られて逃げてしまったという話など思い出されて、源氏の君は気強く心を引き立てて、
「まさかこのまま、なくなってはしまわないだろう。夜の声はとかく仰々しく響く。静かにしなさい」
と、泣きじゃくる右近をお叱りになりながらも、御自分も、あまり突然のあわただしい出来事に呆れていらっしゃいます。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ