〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/05/17 (土) 夕 顔 (十四)

宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上 (マクラガミ) に、いとをかしげなる女ゐて、
「己 (オノ) がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かくことなることなき人を率 (ヰ) ておはして時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」
とて、この御かたはらの人をかき起こさむとすと見たまふ。
ものにおそはるるここちしておどろきたまへれば、火も消えにけり。
うたておぼさるれば、太刀を引き抜きてうち置きたまひて、右近を起こしたまふ。
これも恐ろしと思ひたるさまにて、参り寄れり。
「渡殿 (ワタドノ) なる宿直人 (トノイビト) 起こして、紙燭 (シソク) さし参れと言へ」 とのたまへば、
「いかでかまからむ。暗うて」 と言へば 「あな若々し」 とうち笑ひたまひて、手をたたきたまへば、山彦 (ヤマビコ) の答 (コダマ) ふる声、いとうとまし。
人え聞きつけで参らぬに、この女君、いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思へり。汗もしとどになりて、われかのけしきなり。
「ものおぢをなむわりなくせさせたまふ本性 (ホンジョウ) にて、いかにおぼさるるにか」 と右近も聞こゆ。
いとか弱くて、昼も空をのみ見つるものを、いとほし、とおぼして、
「われ、人を起こさむ。手たたけば、山彦の答ふる、いとうるさし。ここに、しばし、近く」
とて、右近を引き寄せたまひて、西の妻戸 (ツマド) に出でて、戸を押しあけたまへれば、渡殿の火も消えにけり。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

夜が訪れた頃、女とふたりですこしとろとろとお眠りになられたそのお枕上に、ぞっとするほど美しい女が坐っていて、
「わたしが心からほんとにすばらしいお方と、夢中でお慕いしていますのに、捨てておかれて、こんな平凡なつまらない女をおつれ歩きになって御寵愛なさるとは、あんまりです。心外で口惜しく悲しゅうございます」
といいながら、源氏の君の傍らに寝ている女に手をかけ、引き起こそうとするのを、夢にご覧になります。
何かにおそわれたような苦しいお気持ちになり、うなされてお目覚めになると、ふっと灯も消えてしまいました。真っ暗闇の中で気味が悪く、太刀を引き抜いて、魔除にそこに置かれて、右近を起こしました。右近も脅えた様子で、恐ろしそうにおそばへにじり寄ってきました。
「渡り廊下にいる宿直の者を起こして、紙燭 (アカリ) をつけて参れと言いつけなさい」
とお命じになります。右近は、
「どうして行けましょう。暗くて」
と申します。
「なんだ子供っぽいことを」
とお笑いになって、手を叩かれますと、山彦のようにその音が反響して、たいそう不気味にひびきわたります。誰もその音を聞かないらしく、来ない上に、この女君がひどくわなわな震えだし、どうしてよいかわからないように脅えきっております。汗もしとどになって正気を失ったように見えます。
「むやみにものに脅えなさる御性質でいらっしゃいます。どんなお気持でいらっしゃいますことか」
と、右近も申し上げます。たいそうか弱くて、昼の間も空ばかり見つめていたものを、どんなにか怖がっていたのだろう、かわいそうなことをした、とお思いになられて、
「私が人を起こして来よう。手を叩くと山彦が応えて、うるさくてたまらない。お前はここで、しばらくお側についておいで」
とお命じになって、右近を夕顔の傍らにひき寄せられて、西側の妻戸を押し開けられると、なんと渡り廊下の灯もかき消えていたのでした。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ