〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/05/14 (水) 夕 顔 (十一)

明けがたも近うなりけり。鶏 (トリ) の声などは聞こえで、御嶽精進 (ミタケソウジ) にやあらむ、ただ翁 (オキナ) びたる声にぬかづくぞ聞こゆる。起 (タ) ち居 (ヰ) のけはひ、堪へがたげに行ふ。いとあはれに、朝の露に異ならぬ世を、何を貪る身の祈りにかと、聞きたまふ。
「南無当来導師 (ナムトウライドウシ) 」 とぞ拝むなる。
「かれ聞きたまへ。この世とののみは思ざりけり」 と、あはれがりたまひて、

優婆塞 (ウバソク) が 行ふ路を しるべにて 来 (コ) む世も深き 契り違 (タガ) ふな
長生殿のふるき例 (タメシ) はゆゆしくて、翼を交さむとは引きかへて、彌勒 (ミロク) の世をかねたまふ。ゆくさきの御頼め、いとこちたし。
(サキ) の世の 契り知らるる 身の憂さに ゆくすゑかねて 頼みがたさよ
かようの筋なども、さるは、心もとなかめり。
いさよふ月に、ゆくりなくあくがれむことを、女は思ひやすらひ、とかくのたまふほど、にはかに雲がくれて、明けゆく空いとおかし。
はしたなきほどにならぬ先にと、例の、急ぎ出でたまひて、軽 (カロ) らかにうち乗せたまへれば、右近ぞ乗りぬる。
そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、荒れたる門 (カド) のしのぶ草茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗 (コグラ) し。霧も深けきに、簾をさへ上げたまへれば、御袖もいたく濡れにけり。
「まだかやうなることをならはざりつるを、心づくしなることにもありけるかな」
いにしへも かくやは人の まどひけむ わがまだ知らぬ しののめの道
「ならひたまへりや」 とのたまふ。女、はじらひて、
山の端の 心も知らで ゆく月は うはの空にて 影や絶えなむ
「心細く」 とて、もの恐ろしうすごげに思ひたれば、かのさしつどひたる住ひのならひならむと、をかくしおぼす
(口語訳・瀬戸内 寂聴)

明け方も近くになりました。鶏の声などは聞こえないで、あれは金峯山 (キンブセン) に參籠に行く御嶽精進 (ミタケソウジ) の行者たちでしょうか、ひどく年寄りくさい声で祈りながら、地に額をこすりつけ礼拝するのが聞こえてきます。五体投地礼の立ったり坐ったりの動作も、苦しそうに勤行 (ゴンギョウ) しているのでした。
可愛そうに、朝の露と同じようなはかないこの世で、余命いくばくもない老人が、いったい何を貪り求めようとして祈っているのかと、源氏の君はその声をあわれにお聞きになるのでした。
「南無当来導師 (ナムトウライドウシ)
と拝んでいるようです。
「あれをお聞きなさい。あの老人も来世を信じて、この世だけの命とは思っていないのでしょうよ」
と、哀れにお思いになって。

「優婆塞 (ウバソク) が 行ふ路を しるべにて 来 (コ) む世も深き 契り違 (タガ) ふな」
(あの行者たちの勤行を 仏の道への案内として 来世までもあなたよ 深いふたりの愛の契りを たがえないでほしい)
玄宗皇帝と楊貴妃が長生殿で愛を誓い合った昔の例は、死別になって不吉なので、比翼の鳥になって二人で生まれ変わろうという約束とは引きかえに、弥勒菩薩の出現遊ばすという五十六億七千万年の、今からはるかい遠い未来までもの、お約束をなさいます。それはあまりにも大袈裟なお話でございます。
「前 (サキ) の世の 契り知らるる 身の憂さに ゆくすゑかねて 頼みがたさよ」
(わたしの前世のつたなさも 思いやられる身の不運 どれほどあなたを愛しても 行く末かけての契りなど 今から頼りにできようか)
こうした返歌はしましたものの、歌を詠むような嗜みなど、この女には果たしてどれほどあることやら、頼りない感じがします。
沈むのをためらっている月に誘われたように、ふいにどこへとも行方も知らさずさまよい出かけていくのに、女は気が進まず迷っています。源氏の君がいろいろなだめてお誘いになるうちに、ふいに月が雲に隠れて、明けて行く空の景色がたいそう美しく見えます。
明るくなって人目につき、みっともないことにならないうちにと、例のように、急いでお出かけになります。軽々と女を抱きあげて、車に乗せておしまいになりましたので、右近も一緒に乗り込みます。
五条に近い、ある院にお着きになりました。
呼び出された留守番の者が出て来るまで、お車の中から、荒れはてた門の上に、しのぶ草が茂っているのを見上げていらっしゃいます。あたりは木が繁っていて、その蔭でたいそう暗いのでした。
霧も深く、湿っぽいのに、お車の簾まで上げさせていらっしゃったので、源氏の君のお袖までひどく濡れておしまいになりました。
「まだこんなことわたしにははじめての経験だが、なかなか気苦労なものだね」
「いにしへも かくやは人の まどひけむ わがまだ知らぬ しののめの道」
(昔の人も恋の闇路に迷い こんな暗い夜明の道を さ迷い歩いたのだろうか 私にははじめてのこんな恋の道行きだけれど)
「あなたはこんな経験がありますか」
お訊きになります。夕顔の女は恥ずかしそうに、
「山の端の 心も知らで ゆく月は うはの空にて 影や絶えなむ」
(これから沈んでいこうとする 山の端の本心も知らないで そこへ近づいてうき月は 空の途中でもしかしたら 消えはててしまうのかもしれません)
「心細うございます」
とつぶやいて、女は恐ろしそうに、脅えた様子をしていますので、あの狭い家に大勢で住み馴れていたからだろうと思って、源氏の君はおかしくなられます。
新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ