〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/05/16 (金) 夕 顔 (十二)

御車入れさせて、西の対に御座 (オマシ) などよふほど、高欄 (コウラン) に御車ひきかけて立ちたまへり。 右近、えんなるここちして、来 (キ) しかたのことなども、人知れず思ひいでけり。預かりいみじく経営 (ケイメイ) しありくけしきに、この御ありさま知り果てぬ。ほのぼのと見ゆるほどに、下りたまひぬめり。かりそめなれど、きよげにしつらひたり。
「御供に人もさぶらはざりけり。不便 (フビン) なろわざかな」 とて、むつましき下家司 (シモゲイシ) にて、 殿にもつこうまつる者なりければ、参りよりて、 「さるべき人召すべきにや」 など、申さすれど、 「ことさらに人来まじき隠処 (カクレガ) 求めたるなり。さらに心よりほかに漏らすな」 と口がためさせたまふ。
御粥など急ぎ参らせたれど、取りつぐ御まかなひうち合はず。まだ知らぬことなる御旅寝に、息長 (オキナガ) 川と契りたまふことよりほかのことなし。
日たくるほどに起きたまひて、格子手づから上げたまふ。いといたく荒れて、人目もなく遥々 (ハルバル) と見わたされて、木立いとうとましくものふりたり。
け近き草木などは、ことに見所なく、みな秋の野らにて、池も水草にうづもれたれば、いとけうとげになりにける所かな。
別納 (ベチナフ) のかたにぞ、曹司 (ゾウシ) などして、人住むべかめれど、こなたは離れたり。
「けうとくもなりにける所かな。さりとも鬼なども、われをば見ゆるしてむ」 とのたまふ。
顔はなほ隠したまへれど、女のいとつらきと思へれば、げにかばかりにて隔てあらむも、ことのさまにたがひたりと、おぼして、

夕露に 紐とく花は 玉鉾の たよりに見えし えにこそありけれ
「露の光やいかに」 とのたまへば、後目 (シリメ) に見おこせて、
光ありと 見し夕顔の うは露は たそがれどきの そら目なりけり
と、ほのかに言ふ。をかしとおぼしなす。げにうちとけたまへりさま、世になく、所から、まいてゆゆしきまで見えたまふ。
「尽きせず隔てたまへるつらさに、あらはさじと思ひつるものを。今だに名のりしたまへ。いとむくつけし」 とのたまへど、 「海士 (アマ) も子なれば」 とて、さすがにうちとけぬさま、いとあいだれたり。
「よし、これもわれからなり」 と、怨みかつはかたらひ暮らしたまふ。
(口語訳・瀬戸内 寂聴)
門の内にお車を入れさせて、西の対に御座所の用意をしている間、高欄にお車の轅 (ナガエ) をもたせかけて、お待ちになります。
右近はこんな成り行きに何となく艶っぽい情趣をそそられて、女君の過去の恋の場面などを、人知れず心のうちに思い出しております。
留守番の男が緊張して一所懸命走り廻って支度をする様子を見て、右近は男君の御身分をすっかり見抜いてしまいました。
ほのぼのと夜が明けかけ、あたりの物の形が見えてくる頃、お車をお下りになり邸内にお入りになりました。急ごしらえの御座所してはきれいに支度してあります。
「お供にこれという人が誰もおつきしていないとは、いやはや、不都合な事でございますな」
という留守番は、源氏の君とも親しい下級の家司 (ケイシ) で、左大臣邸にもお出入りしている男ですから、お前に参って、
「誰かしかるべき人をお呼びいたしましょうか」
など、右近を介して申し上げますけれど、源氏の君は、
「わざわざ、人の来ないような隠れ家をここと決めて来たのだ。決して、ほかへはこのことを洩らしてはならぬぞ」
と、口止めをなさいます。
家司がお粥などをいそいで源氏の君に差し上げるのですが、お膳を運ぶ御給仕の者も揃いません。
まだ経験したことのない珍しい御旅寝なので、ひたすた愛しあい、とめどもなく溺れ、二人の仲が永遠に尽きることのないようにと、誓いつづけるより他のことはないのでした。
源氏の君は日が高くなった頃にお起きになられて、御自分で格子をお上げになりました。庭はたいそう荒れ果てて人影もなく、はるばると遠くまで見渡されます。庭の木々は無気味な古い大木になって鬱蒼とそそり立っています。
庭先の草木などは、なおさらこれといった美しさもなく、庭一面は秋の野原のように淋しく見えます。池も水草に埋もれています。本当にいつの間に、こんんあ恐ろしそうな不気味な庭園になってしまったのでしょう。
離れの棟のほうには部屋などつくって、留守番の一家が住んでいるらしいのですが、こちらとは遠く隔たっています。
「すっかり人気も遠く気味の悪いところになってしまったものだ。まあ、もし鬼などが住んでいたとしても、わたしだけには手出しをしないだろうよ」
と、源氏の君はおっしゃるのでした。
その顔はまだ覆面のまま隠していらっしゃいます。女がそれをあんまり水臭いと思い、恨んでいましたので、たしかにこれほど深い仲になりながら、隠しごとをするのも悪いとお思いになって、覆面の紐を初めてお外しになりました。
「夕露に 紐とく花は 玉鉾 (タマボコ) の たよりに見えし えにこそありけれ」
(夕べの露に花が咲くように わたしが今覆面を外し 顔をお見せするのも あの通りすがりの道で 姿を見られた縁からだ)
「どうですか。白露の光といったわたしの顔は」
とおっしゃいますと、女は流し目にちらりとみて、
「光ありと 見し夕顔の うは露は たそがれどきの そら目なりけり」
(露に濡れるように 輝いて見えたお顔は 今近くで見ると それほどでもないあては たそがれ時の見まちがい)
とかすかな声で言います。源氏の君はこんな女の歌まで、おもしろいとお思いになります。
すっかりおうちとけになられた源氏の君のお美しさは、世にまたとはなく、ましてこういう不気味な場所柄のせいかいっそうお美しく、鬼神に魅入られるのではないかと不吉にさえ感じられます。
「いつまでもあなたが名さえ教えてくれない他人行儀の恨めしさに、わたしも顔を見せないでおこうと思っていたけれど、さあ、今からでも名を明かしなさい。でないと、あんまり気味が悪い」
とおっしゃいましたが、女は、
「<海人の子> なんですもの、名乗るほどの者ではございませんわ」
と言って、さすがに馴れ馴れしくはせず、はにかんでいる様子などは、たいそう甘えているようにも見えます。
「仕方がない、これも身から出た錆びだろう」
と怨んでみたり、また愛の睦言を交わしあったりして、終日お過ごしになってしまいました。
新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ