〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/05/14 (水) 夕 顔 (十)

八月十五夜、隅なき月影、隙 (ヒマ) 多かる板屋のこりなく漏 (モ) り来て、見ならはひたまはぬ住ひのさまもめづらしきに、暁近くなりにけるなるべし、隣の家々、あやしき賎の男の声々、目さまして、
「あはれ、いと寒しや、今年こそなりはひにも頼むところすくなく、田舎のかよひも思ひかけねば、いと心細けれ。北殿 (キタドノ) こそ、聞きたまふや」
など、言ひかはすも濃く聞こゆ。
いとあはれなるおのがじしのいとなみに、起き出でてそそめき騒もほどなきを、女いとはづかしく思ひたり。
えんだちけしきばむ人は、消えも入りぬべき住ひのさまなめりかも。されど、つらきも憂きもかたはらいたきことも、思ひ入れたるさまならで、わがもてなしありさまはいとあてはかにこめかしくて、たまらなくらうがはしき隣の用意なさを、いかなることとも聞きしりたるさまならねば、なかなか、恥ぢかやかむよりは、罪ゆるされてぞ見えける。
ごほごほと、鳴る神よりも、おどろおどろしく踏みとどろかす碓 (カラウス) の音も、枕上 (マクラガミ) とおぼゆる、あな耳かしましと、これにぞおぼさるる。何の響きとも聞き入れたまはず、いとあやしう、めざましき音なひとのみ聞きたまふ。くだくだしきことのみ多かりき。
白妙の衣うつ砧 (キヌタ) の音も、かすかにかなたかなたに聞きわたさえれ、空飛ぶ雁の声、取り集めて、忍びかたきこと多かり。
端近き御座所 (オマシドコロ) なりければ、遣戸 (ヤリド) を引きあげて、もろともに見いだしたまふ。ほどなき庭に、されたる呉竹 (クレタケ) 、前栽の露は、なほかかる所も同じごときらめきたり。
虫の声々みだりがはしく、壁のなかの蟋蟀 (キリギリス) だに間遠 (マドホ) に聞きならひたまへる御耳に、さしてあてたるやうに鳴き乱るるを、なかなかさまかへておぼさるるも、御心ざし一つの浅からぬに、よろづの罪ゆるさるるなめりかし。
白き袷 (アワセ) 、薄色のなよよかなるを重ねて、はなやかなならぬの姿、いとらうたげにあえかなるここちして、そこと取り立ててすぐれたることもなけれど、ほそやかにたをたをとして、ものうち言ひたるけはい、あな心苦しと、ただいとらうたく見ゆ。
心ばみたるかたをすこし添へたらば、と見たまひながら、なほうちとけて見まほしくおぼさるれば、
「いざ、ただこのわたり近き所に、心安くて明かさむ。かくてのみはいと苦しかるけり」
とのたまへば、
「いかでか、にはかならむ」 と、いとおいらかに言ひてゐたり。
この世のみならぬ契りなどまで頼めたまふに、うちとくる心ばへなど、あやしくやうかはりて、世馴れたる人ともおぼえねば、人の思はむ所もえ憚りたまはで、右近を召しいでて、随身を召させたまひて、御車引き入れさせたまふ。
このある人々も、かかる御心ざしのおろかならぬを見知れば、おぼめかしながら、頼みかけきこえたり。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

八月十五日の中秋の満月の夜のことでした。冴えかえり影もない月光が、すき間の多い板葺きのあばら家には、残りなく洩れて来て、源氏の君は、見なれないそんな女の住まいを、物珍しく感じていらっしゃる間に、いつのまにか明けがた近くになっていたのでしょう。
隣近所の家々の人が目を覚まし、しがない男たちの声が、
「おお、寒ぶ、寒ぶ、何とまあ寒いことだわい」
「今年はさっぱり商売が上がったりで、田舎の方の行商も、ろくなことはあるまいと思うと、ほんとうに心細くてならないねえ。おいおい、北のお隣さんや、聞いてるかい」
など言いかわすのが聞こえてきます。たいそう細々としたそれぞれの暮らしのために、早く起き出して、ざわざわ立ち騒いでいるのが、間近く聞こえてくるのを、女はとても恥ずかしく思っています。
体裁ぶった気取り屋の女なら、恥ずかしさのあまり消えも入りたいような住まいのみじめなありさまでしょう。ところが、この女は、おっとりしていて、辛いことも厭なことも、恥ずかしいことも、あまり気にするようでもなく、そのしぐさや姿はたいそう上品で可愛らしくて、この上なく猥雑で騒々しい隣近所のはしたなさが、どういう話をしているともわかっていない様子なのです。なまじ恥ずかしがって顔を赤らめたりするより、かえって罪がないように源氏の君には思われるのでした。
ごろごろと鳴る雷よりもおどろおどろしい音を立てて、踏みとどろかしている碓 (カラウス) で米をつく響きも、すぐ枕上に聞こえます。ああ、うるさい音だと、これには閉口なさいました。これが何の響きともおわかりにならず、何だか奇妙な気持ちの悪い音だとばかりお聞きになります。その他にも何かといろいろわずらわしいことが多いようでした。
白い布を打つ砧の音も、かすかにあちこちから聞こえて、空を飛ぶ雁の声も加わります。そうした秋の風情を伝える音や声が一つになって源氏の君にはたまらなくあわれなお気持ちがそそられるのでした。
縁近いところにお寝みでしたから、引き戸をあけられて、女と二人で外を眺めていらっしゃいます。狭い庭に、しゃれた呉竹が植えられていて、庭先の草葉においた朝露は、こんな賤しい家でも、立派なお屋敷の庭と同じようにきらきらきらめいています。
女は白い袷の上に、薄紫の着慣れた柔らかな表着 (ウワギ) を重ねていて、あまり目立たないその姿が、たいそう可愛らしくきゃしゃな感じです。どこを取り立ててすぐれたところもないのですが、身体つきがほっそりしてたおやかに、何かいう表情など、とてもいじらしくて、ただひたすら可愛らしく感じられます。もう少し心の表情を見せたなら、いっそうよくなるだろうとお思いになりながら、やはりもっと身も心もとけあわせて女と逢いたいとお思いになるのでした。
さあ、ここからすぐ近くの邸に行って、くつろいでゆっくり夜を明かそう。こんな所でばかり逢っていたのでは、たまったものではないよ」
と源氏の君がおっしゃいますと、女は、
「そんなことは、とても。だってあんまり急なことなんですもの」
と、おっとり言いながら坐っています。源氏の君が、ふたりの仲はこの世ばかりでなく、来世までもつづけようとお誓いになりますと、女は疑いもせず身も心も任せきってくる心情など、不思議なほどほかの女たちとはちがって初々しく、とても恋に馴れた女とも思われません。
源氏の君はそんな女がいっそういとしくなり、周りの思惑などどうでもよくなられます。右近という女房をお召しになって、随身にお命じになり、お車を縁側まで引き入れさせました。
この家の女房たちも、女君への源氏の君のご愛情が、おろそかでないのを、日頃からよく知っておりますので、何となく不安な気持ちを抱きながらも、御信頼しているのでした。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ