〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/05/12 (月) 夕 顔 (八)

女、さしてその人と尋ね出でたまはねば、われも名のりをしたまはで、いとわりなくやつれたまひつつ、例ならず下り立ちありきたまふは、おろかにおぼされぬなるべしと見れば、わが馬をばたてまつりて御供に走りありく。
「懸想人 (ケサウビト) のいとものげなき足もとを見つけられてはべらむ時、かくもあるべきかな」
などわぶれど、人に知らせたまはぬままに、かの夕顔のしるべせし随身ばかり、さては、顔むげに知るまじき童一人ばかりぞ、率 (ヰ) ておはしける。もし思ひよるけしきもや、とて、隣に中宿 (ナカヤドリ) をだにしたまはず。
女も、いとあやしく心得ぬここちのみして、御使に人を添へ、暁の道をうかがはせ、御在処 (アリカ) 見せむと尋ぬれど、そこはかとなくまどはしつつ、さすがにあはれに、見ではえあるまじく、この人の御心にかかりたれば、便なく軽々しきことと、思ほしかへしわびつつ、いとしばしばおはします。
かかる筋は、まめ人の乱るるをりもあるを、いとめやすくしずめたまひて、人のとがめきこゆべきふるまひはしたまはざりつるを、おやしきまで、今朝のほど昼間の隔てもおぼつかなくなど、思ひわづらはれたまへば、かつはいともの狂ほしく、さまで心とどむべきことのさまにもあらずと、いみじく思ひさましたまふに、人のけはひ、いとあさましくやはらかにおほどきて、この深く重きかたはおくれて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず、いとやむごとなきにはあるまじ、いづこにいとかうしもとまる心をぞ、と、かへすがへすおぼす。
いとことさらめjきて御装束 (ソウゾク) をも、やつれたる狩の御衣 (ゾ) をたてまつり、さまをかへ、顔をもほの見せたまはず、夜深きほどに、人をしづめて出で入りなどしたまへば、昔ありけむものの変化 (ヘンゲ) めきて、うたて思ひ嘆かるれど、人の御けはひ、はた、手さぐりもしるきわざなりければ、誰ばかりにかはあらむ、なほこの好き者のしいでつるわざなめり、と、大夫 (タイフ) を疑ひながら、せめてつれなく知らず顔にて、かけて思ひよらぬさまに、たゆまずあざれありければ、いかなることにかと心得がたく、女方も、あやしうやう違ひたるもの思ひをなむしける。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

さて、その女はどこの誰と、はっきり素性をたしけめることが出来ませんので、源氏の君もお名前を明かされません。いつもたいそうな身なりを目立たないようにおやつしになられて、これまでになく身を入れてお通いになるので、これはよほど女を本気でお思いになっていらっしゃるのだろうと、惟光はお察ししました。それで自分の馬を源氏の君にさし上げて、自分はお供で走り歩いていました。
「恋人のこんなみっともない徒歩姿を、あの女に見つけられましたら、さぞ情けないことでしょうなあ」
などと辛がりますが、源氏の君はこの恋を秘めておきたいので、あの夕顔の花をお取り次した随身と、その他には、先方に全く顔を知られていないはずの童一人だけをお供につれていらっしゃいます。もし万が一にも、勘づかれてはと懸念なさり、隣の乳母の家には、中休みにもお立ち寄りにはならないのでした。
夕顔の女のほうも源氏の君については、のんとうに不可解で府に落ちない気持ちがするばかりなので、源氏の君のお使いの後を人に尾けさせたり、明け方、源氏の君がお帰りになる道をたどらせたりして、なんとかお邸のありかを突きとめ様と探るのですが、君の方では、うまく尾行をまいてはぐらかしていらっしゃいます。
こんな水臭いことをしながら、一方では夕顔の女へのいとしさが日々に募り、逢わないではとても耐えられなくなり、この女のことばかりがいつもお心にかかって片時も忘れられません。
こんな次第を不用意な軽はずみなことだとご自身では重々反省もなさり、情けないことだとお思いになりながらも、やはり足繁くお通いにならずにはいらっしゃれないのでした
こうした色恋沙汰は、堅い真面目人間でも分別を失って、惑乱してしまうことがありがちですけれど、源氏の君はこれまでみっともない真似をしないよう自重していらっしゃって、人から非難されるような振る舞いはなさらなかったのです。それなのに今度ばかりは朝別れて夕暮れに訪れるまでの昼間のわずかな時間さえ、怪しいほど逢いたくて気が気でなく、たまらなくお苦しみになられるのでした。
一方では、我ながらいかにも狂気じみていて、こうまでお心を奪われるような相手でもないと、強いて冷静になろうとつとめられます。
女の様子は言いようもなく素直で、もの柔らかにおっとりしていて、考え深いとかしっかりしているというところはあまり感じられません。ひたすら稚 (オサナ) じみた初々しさと無邪気さなのです。かといって、男女の仲を全く知らないというのでもないところから見ると、深窓の高貴の姫君というわけでもないのでしょう。一体、この女のどこにこうまで惹かれるのかと、源氏の君はかえすがえす同じことをお考えになるのでした。
源氏の君は女のところにお通いになる時には、わざとらしいまでにお召物も粗末な狩衣をお召しになり変装なさって、顔さえちらりともお見せになりません。深夜寝静まるのを待って出入りなさいますので、昔、話に聞いた妖怪変化めいて、女はひどく気味悪く思って、心細く悲しくてならないのですけれど、その人のおおよその感じは、さすがに暗闇の中の手さぐりにでもわかりますので、
「いったいどなたぐらいの身分のお方なのかしら、やはりあの隣の好色者 (スキモノ) が手引きしたのかしら」
と、惟光のことを疑ったみるのですが、惟光の方ではもっぱら白を切ってそ知らぬふりで全く思いもよらないという顔をして、自分の情事だけに浮かれ歩いていますので、いったいどういうことかと、女の方ではさっぱり納得がいかず、見当違いの奇妙な物思いをするのでした。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ