〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/05/07 (水) 夕 顔 (六)

秋にもなるぬ。人やりならず、心づくしにおぼし乱るることどもありて、大殿には絶えま置きつつ、うらめしくのみ思ひここえたまへり。
六条わたりにも、とけがたかりし御けしきをおもむけきこえたまひてのち、ひきかへしなのめならむはいちほしかし、されどよそなりし御心まどひのやうに、あながちなることはなきも、いかなることにかと見えたり。
女は、いとものをあまりなるまでおぼししめたる御心ざまにて、齢 (ヨハヒ) のほども似げなく、人の漏り聞かむに、いとどかつらき御夜 (ヨ) がれの寝ざめ寝ざめ、おぼししをるること、いとさまざまなり。
霧のいと深き朝 (アシタ) いたくそそのかせたまひて、ねぶたげなるけしきに、うち嘆きつつ出でたまふを、中将のおもと、御格子 (ミコウシ) 一間 (ヒトマ) あげて、見たてまつり送りたまへ、とおぼしく、御几帳引きやれたれば、御頭 (グシ) もたげて見いだしたまへり。
前栽のいろいろ乱れたるを、過ぎがてにやすらひたまへるさま、げにたぐひなし。
廊のかたへおはするに、中将の君、御供に参る。紫苑色 (シオンイロ) のをりにあひたる、羅 (ウスモノ) の裳 (モ) あざやかに引き結ひたる腰つき、たをやかになまめきたり。
見かへりたまひて、隅の間の高欄 (コウラン) にしばしひき据ゑたまへり。うちとけたらぬもてなし、髪のさがりば、めざましくも、と見たまふ。

咲く花に うつるてふ名は つつめども 折らで過ぎうき けさの朝顔
「いかにすべき」 とて、手をとらへたまへれば、いと馴れて疾く、
朝霧の はれまも待たぬ けしきにて 花に心を とめぬとぞ見る
と、おほやけごとにぞ聞こえなす。をかしげなる侍童 (サブラヒワラハ) の、姿このましう、ことさらめきたる、指貫 (サシヌキ) の裾 (スソ) 露けげに、花のなかにまじりて、朝顔折りて参るほどなど、絵にかかまほしげなり。
おほかたにいち見たてまつる人だに、心とめたてまつらぬはなし。ものの情知らぬ山がつも、花の蔭にはなほやすらはまほしきにや、この御光を見たてまつるあたりは、ほどほどにつけて、わがかなしと思ふ女 (ムスメ) をつかうまつらせばやと願ひ、もしはきちをしからずと思ふ妹など持たる人は、いやしきにても、なほこの御あたりにさぶらはせむと思ひよらぬはなかりけり。
まして、さりぬべきついでの御言の葉も、なつかしき御けしきを見たてまつる人の、すこしものの心思ひ知るは、いかがはおろかに思ひきこえむ、明け暮れうちとけてしもおはせぬを、心もとなきことに思ふべかめり。
(口語訳・瀬戸内 寂聴)

いつしか秋になりました。源氏の君は御自身から求められたこととはいいながら、深くお心を悩まされることが多くて、左大臣家にも、ほとんどご無沙汰がちなのでした。そちらではひたすら恨めしく思っていらっしゃいます。
なかなかなびこうとはなさらなかった六条あたりの御息所にしましても、ようやく、思いどおりに手に入れておしまいになってから後は、打って変わって、熱のさめた冷たいお扱いというのでは、あまりにもお気の毒なことでした。それにしても、まだ御息所が身も心もお許しにならなかった頃の御執心のように、無理にもという一途な情熱がうかがえないのは、どうしたことかろ思われます。
この女君は何かにつけて、極端なほど深刻に考え詰める御性質でした。お年も源氏の君とは似つかわしくないほど御年上なので、世間の人がこの噂を洩れ聞いたならどんなにさげすまれるかと悩まれます。こうして源氏の君がまれにしかいらっしゃらなくなった、淋しい独り寝の眠れない夜毎には、さまざまな悲しい思いが胸にせめぎあい、いおれきっていらっしゃるのでした。
霧がたいそう深い朝のことでした。昨夜は久々に、源氏の君と六条の御息所はこまやかな愛の一夜を供になさいました。御息所はしきりに早くお帰りになるように源氏の君をおせかしになります。
昨夜のはげしい愛の疲れに、源氏の君は、まだ眠たそうなお顔のまま、溜息をつきながらお部屋からお出ましになりました。女房の中将の君が、御格子を一間ひき上げて、御息所にお見送りなさいませというように、御几帳をずらせました。女君は御帳台 (ミチョウダイ) の中からまだ身も心も甘いけだるさにたゆたいながら、ようやく頭を持ち上げて、外をご覧になりました。
庭先の草花が色とりどりに咲き乱れているのにお目をとめられ、美しさに惹かれて、縁側にたたずんでいらっしゃる源氏の君のお姿は、この上もなくお美しく、惚れ惚れいたします。
お車に乗られるため廊の方へいらっしゃるのを、中将の君がお供いたします。紫苑色の、季節にふさわしい小袿を着て、薄物の裳をすっきりと引き結んだ中将の君の腰つきが、嫋々 (ジョウジョウ) としなやかで、なまめいて見えます。源氏の君はふりかえられて、縁側の隅の間の高欄の所に中将の君を少しの間、手をそえてお坐らせになりました。嗜みのある隙をみせないそぶりや、黒髪の美しく頬にかかった様子など、さすがに見事なものだと、すっかり感心なさいます。

「咲く花に うつるてふ名は つつめども 折らで過ぎうき けさの朝顔」
(美しく咲いている 朝顔の花のような女 (ヒト) よ 浮き名の立つのは秘めたいけれど どうして摘まずにいられよう 今朝のいとしいこの朝顔を)
「ああ、どうしたらいいものか」
とおっしゃって、中将の君の手をおとりになりますと、女はあわてもせず、とっさに、
「朝霧の はれまも待たぬ けしきにて 花に心を とめぬとぞ見る」
(朝霧の晴れ間も待たず 早々とお帰りをいそぐあなた 朝顔の花のように美しいお方に お心をとめていらっしゃらないと お見受けしますけれど)
と、女房の立場から花を御息所にあてて、さりげなくお答えいたします。
可愛らしい召し使いの少年が、洒落たみなりをして、ことさらに気どっているのか、指貫 (ユビヌキ) の袴の裾を朝露に濡らしながら、草花の中にわけ入り朝顔を手折って来るところなど、絵に描きたいような眺めでした。
これよいうかかわりもなく、ただちらりと源氏の君のお姿を拝した人でさえ、そのすばらしさに心を捕らえられ、夢中にならない者はおりません。ものの情趣もわきまえない山住みの賤しい田舎者でさえ、美しい花の下蔭には、やはり休みたくなるものなのでしょうか、源氏の君の光り輝くようなお姿をお見かけしているような人は、それぞれの身分に応じて、自分のいとしく思っている娘を源氏の君の御奉公にさし出したいと願い、まやは人に自慢したいような美しい妹などもっている人は、身分の低い召し使いの立場でも結構だから、やはり源氏の君のお邸に御奉公させたいと、願わない者はなかったのでした。
まして、六条の御息所邸の中将の君のように、何かの折々に、源氏の君からちょっとお言葉をかけていただいたり、慕わしいお姿を近々と拝しているような女房たちの中で、少しものをわきまえた者は、どうして源氏の君のことに、心をこまかくお配りしないでおられましょう。
それだからこそ、源氏の君が朝も夜も、いつもこのお邸にお留まりになって、打ちくつろいで下さればどんなにか嬉しいのにと、心もとなくもどかしく思っているようでした。
新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ