〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/05/01 (木) 夕 顔 (四)

惟光、日頃ありて参れり。
「わづらふはべる人、なほ弱げにはべれば、とかく見たまへあつかひてなむ」
など聞こえて、近く参り寄り手て聞こゆ。
「仰せられしのちなむ、隣のこと知りはべる者呼びて、問はせはべりしかど、はかばかしく申しはべらず。いと忍びて五月のころほひよりものしたまふ人なむあるべけれど、その人とは、さらに家のうちの人にだに知らせず、となむ申す。時々中垣 (ナカガキ) のかいま見しはべるに、げに若き女どもの透影 (スキカゲ) 見えはべり。褶 (シビラ) だつもの、かことばかり引きかけて、かしづく人はべるなめり。昨日、夕日のなごりなくさし入りてはべりしに、文書くとてゐてはべりし人の、顔こそいとよくはべりしか。もの思へるけはひして、ある人々も忍びてうち泣くさまなどなむ、しるく見えはべる」
と聞こゆ。
君うちゑみたまひて、知らばやと思ほしたり。おぼえこそ重かるべき御身のほどなれど、御よはひのほど、人のなびきめできこえたるさまなど思ひには、すきたまはざらむも、なさけなくさうざうしかるべしかし、人のうけひかぬほどにてだに、なほさりぬべきあたりのことは、このましうおぼゆるものを、と、思ひをり。
「もし見たまへ得ることもやはべると、はかなきついでつくり出でて、消息などつかはしたりき。書き馴れたる手して、口疾く返りことなどしはべりき。いとくちをしうはあらぬ若人 (ワカウド) どもなむはべるめる」
と聞くこゆれば、
「なほ言ひ寄れ。尋ね寄らでは、さいざうしかりなむ」 とのたまふ。
かの下が下と、人の思ひ捨てし住ひなれど、そのなかにも、思ひのほかにくちおしからぬを見つけたらばと、めづらしく思ほすなりけり。
さて、かの空蝉のあさましくつれなきを、この世の人とは違ひておぼすに、おいらかならましかば、心苦しきあやまちにてもやみぬべきを、いとねたく、負けてやみなむを、心にかからぬをりなし。
かようのなみなまみまでは思ほしからざりしつるを、ありし雨夜の品定めの後、いぶかしく思ほしなるしなじなあるに、いとどくまなくなりぬる御心なめりかし。
うらもなく待ちきこえ顔なる片 (カタ) つ方人 (カタビト) を、あはれとおぼさぬにしもあらねど、つれなくて聞きゐたらむことのはづかしければ、まづこなたの心見果ててと、おぼすほどに、伊予の介上 (ノボ) りぬ。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

惟光が数日たって参上いたしました。
「病人がまだ弱っておりますので、何かと看病に終われておりまして」
まど申し上げてから、いっそうお側近くに進んで、
「例のお話がございました後に、隣のことをよく知っている者を呼びまして、尋ねさせましたが、はっきりしたことも言いません。ごくこっそりと、五月ころから西隣の家に御滞在のお方がいらっしゃるようですが、どういうお方なのかは、家の中の者にさえとんと知らせないようにしていると申します。わたしも時々、隣との境の垣根越しに覗き見しますが、たしかに若い女たちの姿が、簾越しに見えます。褶 (シビラ) のようなものを形ばかりでも腰につけているのは、仕えている主人がいるのでございましょう。
昨日のことですが、夕陽の残照が隣家の中いっぱいにさしこんでおりましたと折に、手紙を書く様子で座っていた女の顔が、それはきれいでした。何か物思いに沈んでいるふうで、側にいる女房たちも、ひっそり泣いている様子などがよく見えました」
と申し上げます。
源氏の君はほほ笑まれて、もっとその女のことを知りたいとお思いになります。
惟光も心のうちに、
「源氏の君は御身分が社会的にも重々しいお方だけれど、お年の若さや、女たちがすっかり魅せられてあんなに夢中になってお慕い申し上げる様子を見ると、これまであまりお堅いばかりなのも、情がなさすぎて淋しいかもしれない。女たちが相手にしてくれそうもない身分の低い男でさえ、やはりこれはと思う女がいれば、恋心が動かずにいられないのだから、まして女たちが夢中になる源氏の君のことだもの、浮気なのも仕方がないだろう」
などと思っているのでした。
「もしかしたら、何か見つけ出せることもあろうかと思いまして、ちょっとしたついでをつくって、あの家の女房に恋文などやってみましたら、即座に、書き馴れた筆つきで返事が返ってまいりました。どうやら、満更でもない若い女房たちがいるようです」
と惟光が申し上げますと、
「もっとその女に言い寄ってみることだね、女たちの正体を突き止めないことには、残念だからな」
とおっしゃいます。
あの雨の夜の品定めでは、頭の中将が下の下の身分と軽蔑して問題にもしなかった住居ですけれど、そんな中から思いがけなく、悪くない女を見つけられでもすればどんなに奇蹟のように思うだろうと、お心が弾んでいらっしゃいました。
ところで、あの空蝉のように衣だけを残していった女が、情けないほど冷淡だったのを、この世の女とも思えないと思い出されるにつけても、もし素直になびいてくれていたなら、女には気の毒な過失をつい犯してしまったということにして、済ませてしまっただろうに、小癪にも二度も女に振られて、負けたままで終わりそうなので、このままではひっこみがつかず、口惜しさのあまりお忘れになることはないのでした。
こいう平凡な身分の女にまでは、以前なら思いをかけられたこともないのに、いつかの雨夜の品定めの後からは、好奇心をそそられる様々な階層の女たちがあるとおわかりになって、ますますあらゆる女に興味と関心を抱かれるようでした。
疑いもせず、真正直にひたすらお逢いする日をお待ちしているような、もう一人の若い女のことも、かわいそうだとお思いにならないことはないのですが、空蝉の女がそ知らぬ顔で、自分と継娘の一部始終を冷ややかに見ているのだろうと思うと、恥ずかしくて、まず、空蝉の本心を見とどけてからと思いあぐねていらっしゃるうち、伊予の介が上洛してきました。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ