〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/04/24 (木) 夕 顔 (一)

六条わたりの御忍びありきころ、内裏よりまかりでたまふ中宿 (ナカヤドリ) に、大弐 (ダイニ) の乳母のいたくわづらひて尼になりける、とぶらはむとて、五条なる家尋ねておはしたり。
御車入るべき門 (カド) は鎖 (サ) したりければ、人して惟光 (コレミツ) 召させて、待たせたまひけるほど、むつかしげなる大路のさまを見わたしたまへるに、この家のかたはらに、檜垣 (ヒガキ) といふもの新しうして、上は、半蔀 (ハジトミ) 四五間ばかりあげわたして、簾などもいと白う涼しげなるに、をかしき額つきの透影 (スキカゲ) 、あまた見えてのぞく。
たちさまよふらむ下 (シモ) つかた思ひやるに、あながちにたけ高きここちぞする。いかなる者の集へるならむと、やうかはりておぼさる。御車もいたくやつしたまへり、前駆 (サキ) も追はせたまはず、誰とか知らむとうちとけたまひて、すこしさしのぞきたまへれば、門 (カド) は蔀 (シトミ) のやうなる、押しあげたる、見いれのほどなく、ものはかなき住 (スマ) ひを、あはれに、何処 (イズコ) かさして、と、思ほしなせば、玉の台 (ウテナ) も同じことなり。
きりかけだつ物に、いと青やかなるかづらの、ここちよげにはひかかれるに、白き花ぞ、おのれひとり笑 (エミ) の眉ひらけたる。
「遠方人 (ヲチカタビト) にもの申す」 と、ひとりごちたまふを、御随身 (ミズイシン) ついゐて、
「かの白く咲けるをなむ、夕顔と申しはべる。花の名は人きめて、かうあやしき垣根になむ、咲きはべりける」 と、申す。
げにいと小家がちに、むつかしげなるわたりの、このもかのも、あやしくうちよろぼひて、むねむねしからぬ軒のつまなどに、はひまつはれたるを、「くちをしの花の契りや。一ふさ折りて参れ」 とのたまへば、この押しあげたる門に入りて折る。
さすがにされたる遣戸口 (ヤリドグチ) に、黄なる生絹 (スズシ) の単袴 (ヒトエバカマ) 、長く着なしたる童 (ワラハ) の、をかしげなる、出で来て、うち招く。
白き扇の、いたうこがしたるを、 「これに置きて参らせよ。枝もなさけなげなめる花を」 とて、取らせたれば、門をあけて惟光の朝臣出で来たるして、奏らす。
「鍵を置きまどはしはべりて、いと不便 (フビン) なるわざなりや。もののあやめ見たまへ分くべき人もはべらぬわたりなれど、らうがはしき大路に立ちおはしまして」 と、かしこまり申す。引き入れて下りたまふ。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)
源氏の君が六条のあたりに住む恋人のところに、ひそかにお通いになられている頃のことでした。
その日も、宮中から御退出になり、六条へいらっしゃる途中のお休み処として、大弐 (ダイニ) の乳母が重い病気にかかり、尼になっているのを見舞ってやろうと思いつかれて、五条にある乳母の家を尋ねていらっしゃいました。
お車を入れる門は、錠を下ろし閉ざされていましたので、中にいる乳母の子の惟光をお供の者に呼び出しにやられました。
惟光をお待ちになっていらっしゃる間の所在なさに、車の中からみずぼらしいそのあたりの大路の様子を眺めていらっしゃいますと、乳母の家の傍に、檜垣という垣根のま新しいのを、結いめぐらせた家があるのが目につきました。家の上の方は半蔀 (ハジトミ) を四、五間ほどすっかり上げて、簾などもいかにも白く涼しそうに下げられています。その向こうに美しい額の女の影が、ちらちらいくつも透いて見え、女たちもどうやらこちらを覗いているようです。
立ったまま動きまわっているらしい女たちの、見えない下半身を想像しますと、むやみに背丈が高そうに感じられます。
いったいどういう女が集まっているのだろうと、源氏の君は好奇心をかきたてられるのでした。
お車も出来るだけ目立たなく略式にしていらっしゃるし、先払いの声も止められているので、自分を誰だかわかりはしないだろうと気をお許しになって、少し車からお顔を出して覗かれますと、門は蔀戸のようなものを押し上げてあり、中も手狭で、見るからに粗末な小さな住居なのです。
しみじみそれをご覧になるにつけても、どうせこの世はどこに住んでも仮の宿りにすぎないのだと、よくお考えになってみれば、金殿玉楼もこのささやかな家も、所詮は同じことだとお思いになります。
切懸 (キリカケ) のような粗末な板塀に、鮮やかな青々とした蔓草 (ツルクサ) が気持ちよさそうにまつわり延びていて、白い花が自分だけさも楽しそうに、笑みこぼれて咲いています。
「そちらのお方にちょっとお尋ねします。そこに咲いているのは何の花」
と、源氏の君がひとりごとのようにつぶやかれますと、護衛の随身が、お前にひざまずいて、
「あの白く咲いている花は、夕顔と申します。花の名は一応人並みのようですが、こういうささやかであわれな家の垣根に咲くものでございます」
と申し上げました。いかにも小さな家ばかりがほそぼそと建てこんだみすぼらしいこのあたりのあちらこちらに頼りなさそうに傾いた粗末な家々の軒端などに、夕顔の蔓がからみつき延びているのをご覧になって、
「みじめな花の宿命だね、一房折って来なさい」
とおっしゃいますので、随身は、あの戸を棹で押しあげた門の内に入り、白い花の蔓を折りました。
ささやかな家ながらもどことなく風情のある引戸口に、黄色の生絹 (スズシ) の単袴 (ヒトエバカマ) を裾長にはいた、可愛らしい女童 (メノワラワ) が出て来て、手招きします。
「この上に花をのせてさし上げて下さい。蔓も頼りない花ですから」
といって、扇を渡しました。ちょうどそのとき、惟光が門を開けて出てきましたので、随身は扇の花を惟光に渡し、惟光の手から源氏の君にさし上げました。
「門の鍵を、どこに置いたか見つからず、お待たせして、失礼いたしました。この辺りには、源氏の君とお見受けするような気のきいた者もおりませんが、汚らわしい路ばたに、お車を立ち往生させてしまいまして」
と、惟光はしきりにおわび申し上げます。
ようやく車を門内に引き入れて、源氏の君はおおりにお下になりました。
新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ