〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/04/21 (月) 空 蝉 (五)

小君近こう臥したるを起こしたまへば、うしろめとう思ひつつ寝ければ、ふとおどろきぬ。
戸をやをら押しあくるに、老いたる御達 (ゴタチ) の声にて、
「あれは誰 (タ) ぞ」 と、おどろおどろしく問ふ。
わづらはしくて、 「まろぞ」 といらふ。
「夜中に、こはなぞありかせたまふ」 とさかしがりて外 (ト) ざまへ来 (ク)
いと憎くて、
「あらず。ここもとへ出づるぞ」 とて、君を押し出でたてまつるに、暁近き月、隅なくさし出でて、ふと人の影見えければ、
「またおはするは誰ぞ」 と問ふ。
「民部のおもとめなり。けしうはあらぬおもとのたけだちかな」 と言ふ。
たけ高き人の常に笑はるるを言ふなりけり。老人 (オイビト) 、これを連ねありきけると思ひて、
「今、ただ今、立ちならびたなひなむ」 と言ふ言ふ、われもこの戸より出でて来。
わびしけれど、えはた押しかへさで、渡殿の口にかい添ひて、隠れ立ちたまへれば、このおもとさし寄りて、
「おもとは、今宵は上にやさぶらひたまひつる。一昨日 (オトトヒ) より腹を痛みて、いとわりなければ、下にはべりつるを、人少なくなりとて召ししかば、昨夜 (ヨベ) まうのぼりしかど、なほえ堪ふまじくなむ」 とうれふ。
いらへ聞かで、 「あな腹々。今聞こえむ」 とて過ぎぬるに、からうし出でたまふ。なほかかるありきはかろがろしくあやふかりけりと、いよいよおぼし懲りぬべし。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)
近くで眠っていた小君をお起こしになると、ずっと気にしながら眠っていたので、すぐ目をさましました。小君が妻戸をそって押し開けますと、年寄りの女房の声で、
「誰ですか、そこにいるのは」
と大げさに訊きます。小君が面倒に思って、
「わたし」
と答えます。
「この夜中にまた、どうしてお出歩きになりますの」
と、世話焼き顔にのこのこ戸口の方へやってきました。小君はひどく癪に障って、
「何でもないよ、ちょっとここへ出るだけだ」
と云いながら、源氏の君をすっと戸の外へ押し出しておあげになりました。
晩方近い月が隈なくさし上った光の中に、ふと人影が浮き出て見えましたので、女房が、
「おや、もう一人いらっしゃるのはどなた」
と訊きます。その声の下から、
「ああ、民部のおもとですね。なんてお見事な背丈ですこと」
と云うのです。民部のおもとは背が高いので、いつも笑われていたのでした。この老女は、小君が民部を連れていると思いこんでいて、
「今にもすぐ、若君だって、民部と同じぐらいの背丈におなりですわ」
と云いながら、自分もその戸口から出てきました。小君は当惑しながらも、押し返すわけにはいきません。
源氏の君は渡り廊下の出入り口にお体を寄せて、隠れて立ちすくんでいらっしゃいます。
老女はその側へ寄って来て、
「あなたも今夜は宿直していられたの。わたしは一昨日から、お腹を悪くして、とてもがまん出来ないので局に下がっていたのに、女房が少ないというので呼び出されて、昨夜上がってきました。でもやはり、とても辛抱できませんわ」 と訴えます。
こちらの返事も聞かないで、
「あ、痛たた、痛た、おなかが・・・・また後で・・・・」
と言い捨てて行ってしまいました。
源氏の君はやっとのことでそこをお出になりました。
やはりこうしたお忍びのお出歩きは、軽々しくて危険だと、身にしみてお懲りになられたことでしょう。
新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ