〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/04/21 (月) 空 蝉 (六)

小君、御車の後 (シリ) にて、二条の院におはしましぬ。ありさまのたまひて、をさなかりけりと、あはめたまひて、かの人の心を、爪弾きをしつつうらみたまふ。
いとほしうて、ものもえ聞こえず。
「いと深う憎みたまふべかめれば、身も憂く思ひ果てぬ。などか、よそにても、なつかしきいらへばかりはしままふまじき。伊予の介に劣りける身こそ」
など、心づきなしと思ひてのたまふ。
あるつる小袿 (コウチキ) を、さすがに御衣の下に引き入れて、大殿籠れり。
小君を御前へ臥せて、よろづにうらみ、かつはかたらひたまふ。
「あこは、らうたけれど、つらきゆかりにこそ、え思ひ果つまじけれ」
と、まめやかにのたまふを、いとわびしきと思ひたり。
しばしうち休みたまへど、寝られたまはず。御硯急ぎ召して、さしはへたる御文にはあらで、畳紙 (タタウガミ) に、手習のやうに書きすさびたまふ。

うつせみの 身をかへてける 木 (コ) のもとに なほ人がらの なつかしきかな

と書きたまへるを、懐に引き入れて持 (モ) たり。
かの人もいかに思ふらむと、いとほしけれど、かたがた思ほしかへして、御ことづけもなし。かの薄衣は、小袿のいとなつかしき人香 (ヒトガ) に染 (シ) めるを、身近くならして、見ゐたまへり。
小君、かしこきにいきたれば、姉君待ちつけて、いみじくのたまふ。
「あさましかりしに、とかうまぎらはしても、人の思ひけむことさりどころなきに、いとなむわりなき。いとかう心をさなきを、かつはいかに思ほすらむ」
とて、はづかしめのたまふ。
右左に苦しう思へど、かの御手習取り出でたり。さすがに、取りて見たまふ。かのもぬけを、いかに、伊勢をの海士 (アマ) のしほなれてや、など思ふもただならず、いとよろづに乱れて、西の君も、ものはづかしきここちしてわたりたまひにけり。また知る人もなきことなれば、人知れずうちながめてゐたり。
小君のわたりあるくにつけても、胸のみふたがれど、御消息もなし。あさましと思ひうるかたもなくて、されたる心に、ものあはれなるべし。
つれなき人も、さこそしづむれ、いとあさはかにもあらぬ御けしきを、ありしながらのわが身ならばと、取りかへすものならねど、忍びがたければ、この御畳紙の片つ方に、

うつせみの 羽 (ハ) に置く露の 木隠 (コガク) れて 忍び忍びに 濡るる袖かな
(口語訳・瀬戸内 寂聴)
小君が車の後ろに乗って、二条の院にお着きになりました。
源氏の君は小君に、今夜の一部始終をすっかり話しておやりになり、
「お前はやはり子供で役に立たないね」
と、お叱言 (コゴト) をおっしゃって、あの女のことを爪弾きしてお恨みになります。小君はお気の毒で、言葉もありません。
「あの人にあんまりひどく憎まれてしまったので、つくづく自分に愛想がつきはててしまった。せめて物越しにでもやさしい言葉ぐらいかけてくれたってよさそうなものなのに。わたしは伊予の介にさえ劣っているというのか・・・・」
などと心外そうにつぶやかれます。
それでもあの女の脱ぎ捨てていった薄衣の小袿を、恨みながらもさすがにお召物の下に引き入れてお寝みになられるのでした。
小君を傍らに寝かせて、しきりに冷たい女のことで恨みごとをくどくどおっしゃりながら、また一方では、小君におやさしいお言葉もおかけになるのでした。
「お前は可愛いけれど、つれないあの人の身内だから、いつまでも可愛がってやれそうもないね」
などと、真顔でおっしゃるので、小君はほんとうに辛がって、しおれてしまいます。
しばらく横になっていらっしゃいましたが、いっこうにお寝みになれません。硯を急いでお取り寄せになって、お届けになるお手紙をわざわざ書くというふうではなく、さりげなく懐紙に手習いのようにお書き流しになられるのでした。
空蝉の 身をかへてける 木 の下 に なほ人がらの なつかしきかな
(蝉が抜け殻だけ残し 去ってしまった木の下で 薄衣だけを脱ぎ残し 消えてしまったあなたを 忘れかねているこのわたし)
とお書きになったのを、小君は懐に入れました。
もう一人の継娘の方も、どう思っているだろうと可哀相には思われますが、あれこれご思案の上で、とくにお言伝もなさいませんでした。ただあの薄衣は、懐かしい人の移り香のしみついている小袿ですから、常におそばにお置きになって、眺めていらっしゃるのでした。
小君が紀伊の守の邸に着きますと、姉君は待ちかまえていて、きびしく叱りつけます。
「昨夜はあまりといえば呆れ果てたことで、何とか逃げるには逃げたものの、人に疑われるに決まっています。いったいどうするつもりなの。ほんとうに迷惑千万な事ですよ。お前のこんなたわいのなさを、あの方だって、何とお思いになっていらっしゃることやら」
と、頭ごなしに叱り付けます。
小君はあちらからもこちらからも、叱られてばかりなので、やりきれなく思いながら、あの源氏の君の、お手習いのように書いたお手紙を取り出して渡しました。
姉君もさすがにそれを手に取って見ます。あの藻抜けの殻の薄衣の小袿を、まさかお持ち帰りになったとは、まあ、どうしよう、あれは <伊勢をの海人の捨て衣> のように、どんなにか塩たれていたことだろうにと心は千々に思い乱れてくるのでした。
西の対の娘も、何となく恥ずかしいような気持ちで、自分の部屋へ帰っていきました。誰もあのことを知っている人もいないので話すことも出来ず、一人もの思いにうち沈んでいます。
小君がしきりに、あちこち往き来している姿が目に入るにつけても、もしやあの方のお手紙ではと、胸が切なくなりますが、源氏の君からはあれっきり、お便りもありません。
それをあんまりなお仕打ちだとも思わず、人まちがいされたなどとは思い当たるすべもないので、色っぽい気分にも、さすがに何となくもの淋しい思いでいることでしょう。
一方、あくまでつれない女も、一応さも平静そうに思いを抑えこらえているものの、どうやら思いの外に深く真実らしいお気持ちが身にしみるにつけ、もしこれが夫のいない娘の頃だったならと、いま更、過ぎ去った昔を取りかえしようもないままに、源氏の君への恋しい気持ちが忍びきれなくなり、いただいた手紙の懐紙の端に、人知れず書きつけるのでした。
空蝉の 羽におく露の 木かくれて しのびしのびに 濡るる袖かな
(薄い空蝉の羽に置く露の 木の間にかくれてみえないように 私も人にかくれて忍び忍んで あなたへの愛の切なさに ひとり泣いているものを)
新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ