〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/04/20 (日) 空 蝉 (四)

君は入りたまひて、ただひとり臥したるを心やすくおぼす。床の下に二人ばかり臥したる。衣 (キヌ) をおしやりて寄りたまへるに、ありしけはひよりは、ものものしくおぼゆれど、おもほしも寄らずかし。
いぎたなきさまなどぞ、あやしくかはりて、やうやう見あらはしたまひて、あさましく心やましけれど、人違 (タガ) へとたどりて見えむも、をこがましく、あやしと思ふべし、本意の人をたづね寄らむも、かばかりのがるる心あめれば、かひなう、をこにこそ思はめとおぼす。
かのおしかりつる火影 (ホカゲ) ならば、いかがはせむにおぼしなるも、わろき御心浅さなめかりし。
やうやう目さめて、いとおぼえずあさましきに、あきれたるけしきにて、何の心深くいとほしき用意もなし。
世の中をまだ思ひしらぬほどよりは、さればみたるかたにて、あえかにも思ひまどはず。われとも知らせじと思ほせど、いかにしてかかることぞと、のち思ひめぐらさむも、わがためにはことにもあらねど、あのつらき人の、あながちに名をつつむも、さすがにいとほしければ、たびたびの御方違 (カタタガ) へにことづけたまひしさまを、いとよう言いひなしたまふ。
たどらむ人は心得つべけれど、まだいと若きここちに、さこそさしすぎたるやうなれど、えしも思ひ分からず。
憎しとはなけれど、御心とまるべきゆゑもなきここちして、なほかのうれたき人の心をいみじくおぼす。
いづくにはひまぎれて、かたくなしと思いひゐたらむ、かく執念 (シフネ) き人はありがたきものをとおぼすにしも、あやにくにまぎれがたう思ひいでられたまふ。
この人の、なま心なく若やかなるけはひもあはれなれば、さすがに情々 (ナサケナサケ) しく契りおかせたまふ。
「人知りたることよりも、かやうなるは、わはれも添ふこととなむ、昔人も言ひける。あひ思ひたまへよ。つつみことなきにしもあらねば、身ながら心にもえまかすまじくなむありける。また、さるべき人々も許されじかしと、かねて胸いたくなむ。忘れで待ちたまへよ」
など、なほなほしくかたらひたまふ。
「人の思ひはべらむことのはづかしきになむ、え聞こえさすまじき」 と、うらもなく言ふ。
「なべて、人に知らせばこそあらめ、このちひさき上人 (ウエビト) に伝へて聞こえむ。けしきなくもてなしたまへ」
など言いひおきて、かの脱ぎすべしたると見ゆる薄衣を取りて出でたまひぬ。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)
源氏の君はお入りになると、女がただ一人寝ているので、ほっとなさいました。長押の下の間に女房が二人ほど寝ています。
女の体にかけていた夜着をそっと押しのけられて、女の側にぴったりと寄り添って横になられます。
そうっと女の体をおさぐりになりますと、この間の夜より何となく手触りに豊満な感じが伝わります。それでも別人とはお気づきにならないのでした。
そのうち、いぎたなく寝こけてなかなか目を覚まさない女の様子などが、どうもあの女とは、妙に様子が違っているとお気づきになりました。
ようやく、さては別人だったのかとおさとりになられると、あまりのことに情けなくいまいましくてなりません。
「それにしても人違いだったと、あわてふためいたところを見せるのも、ずいぶん間の抜けたことだし、何よりもこの娘だって変に思うだろう。今更あの女を探してみたところで、これほど自分から逃げようとしているのだから、所詮、無駄骨だろう、女にもいっそう愚かな男だと嘲笑されるのがおちだ」
と思いめぐらされます。
「この娘が、あの灯影で見た可愛かった女なら、ままよ、それもよかろう」
とお思いになってしまうのも、感心できないいつもの浮気なお心のせいでございましょう。
娘はようよう目をさましますと、思いもかけないことになっているので、すっかり驚き呆然としている様子ですが、こうした場合の、何の心得も嗜みもなくて、可愛そうなことをしたと憐れみをおこさせるようなしおらしさも、見せないのでした。
処女であったわりには、初々しさに欠け、物馴れした様子で、こんな場合に、消え入りそうにうろたえるという風情もありません。
源氏の君は、女にご身分を知られたくはないとお思いになりましたが、どうしてこんなことが起こったのかと、後でこの娘が色々思いめぐらす時、自分としては差し支えのないものの、あのつれない人が、世間体を無性に気にしていただけに、どんなに苦しむだろうと、さすがに不憫に思われて、
「これまで、度々、方違えにかこつけてこの邸を訪れたのも、実はあなたが目当てだったのですよ」
など、上手にとりつくろって娘にお話になります。よく気のつく女なら、源氏の君のお目当ては継母だったのだと、察しのつきそうなものなのに、小生意気なようでも、まだ年若い娘の思慮では、そこまでは思いつかないのでした。
この若い娘が可愛くないというわけでもないのですが、格別お心を惹かれるようなところもなく、やはりあのあいまいましい女の薄情を、つくづくあんまりだとお恨みになります。
「いったいあの女は、どこに隠れひそんで、自分のことを間抜けな男だとさげすんでいるのだろうか、あんなにしぶとい我の強い女がまたとあろうか」
とお思いになりましても、あいにくかえって忘れられず、あの女のことばかりがせつなく思い出されるのでした。
この若い娘の無邪気な屈託のない様子もいじらしく心をそそられて、さすがに愛情をこめて、おやさしく先々も決して変わらないと、おちかきになりますお誓いになります。
「公然と人に知られた仲よりもこうした誰にも知られない秘密の恋こそ、愛情もいっそう深まるものだと昔の人もいっています。あなたも私を思って下さいね。わたしは世間に気がねの多い身の上なので、思うままに自由に振舞えないこともあるのです。また、あなたの家族にしたって、こうした仲は許してくれないだろうと思うと、今から心が痛みます。わたしを決して忘れないで、待っていて下さいね」
など、もっともらしく調子のいいことばを並べていらっしゃいます。
「人にどう思われるかと恥ずかしくて、とてのわたしからはお手紙はさしあげられませんわ」
娘は素直にいうのでした。
源氏の君は、
「誰彼なしに話されては困りますよ。とにかくこの家の小さな殿上人を使いにしてお便りしましょう。あなたはさり気なく振舞っていらっしゃい」
などと言い残されて、あの女が脱ぎすべらせていった薄衣 (ウスギヌ) を取り上げて、お出になりました。
新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ