〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/04/16 (水) 空 蝉 (一)

寝られたまはぬままには、
「われは、かく人に憎まれてもならはぬを、今宵なむ、はじめて憂しと世を思ひ知りぬれば、はづかしくて、ながらふまじくこそ、思ひななりぬれ」
などのたまへば、涙をさへこぼして臥したり。 いとらうたしとおぼす。手さぐりの細く小さきほど、髪のいと長からざりしけはひの、さまかよひたるも、思ひなしにや、あはれなり。
あながちにかかづらひたどり寄らむも、人わろかるべく、まめやかにめざましとおぼし明かしつつ、例のやうにものたまひまつはさず、夜深 (ヨブカ) う出でたまへば、この子は、いといとほしく、さうざうしと思ふ。
女も、なみなみならずかたはらいたしと思ふに、御消息も絶えてなし。
おぼし凝りにけると思ふにも、やがてつれなくて止みたまひなましかば憂からまし、しひていとほしき御ふるまひの絶えざらむも、うたてあるべし、よきほどに、かく閉 (ト) ぢめてむ、と思ふものから、ただならず、ながめがちなり。
君は、心づきなしとおぼしながら、かくてはえ止むまじう御心にかかり、人わろくおもほしわびて、小君に、
「いとつらうも、うれたうもおぼゆるに、しひて思ひかへせど、心にしも従はず苦しきを、さりぬべきをり見て、対面すべくたばかれ」
とのたまひわたれば、わづらわしけれど、かかるかたにても、のたまひまつはすは、うれしくおぼえけり。
をさなきここちに、いかならむをり、と待ちわたるに、紀伊の守、国に下りなどして、女どちのどやかなる夕闇の道たどたどしげなるまぎれに、わが車にて率 (イ) てたてまつる。
この子もをさなきを、いかならむ、とおぼせど、さのみもえおぼしのどむまじかりければ、さりげなき姿にて、門などささぬさきにと、急ぎおはす。
人見ぬかたより引き入れて、おろしたてまつる。童なれば、宿直人 (トノイビト) なども、ことに見入れ追従 (ツイソウ) せず、心やすし。
東の妻戸 (ツマド) に立てたてまつりて、われは南の隅の間より、格子たたきののしりて入りぬ。
御達 (ゴタチ) 「あらはなり」 と言ふなり。 「なぞ、かう暑きに、この格子はおろされたる」 と問へば、 「昼より西の御方のわたらせたまひて、碁 (ゴ) 打たせたまふ」 と言ふ。
さて向ひゐたらむを見ばや、と思ひて、やをら歩み出でて、簾のはさまに入りたまひぬ。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)
お眠りになれないので、源氏の君は横に寝ている小君に、
「わたしはこんなに人に嫌われたことは一度もなかったのに、今夜という今夜は、はじめて恋は辛いものだと、つくづく思い知らされてしまった。もう恥ずかしくて、生きていくのもいやになってしまった」
と、おっしゃいます。小君は、思わず涙さえこぼしながら横になっています。
そんな小君を、なんと可愛い子だと源氏の君はお思いになります。抱き寄せたあの女の体つきが手さぐりの掌に細っそりと小さく感じたのや、あまり長くなかった髪の手触りなどが、気のせいかこの子の感じによく似ているように思われるのも、しみじみいとおしさをそそらてます。
これ以上しつこく付きまとって、強いて捜しだして言い寄ったりするのも、いっそう恥じの上塗りになるだろうと思われて、心からひどい女だと恨みつづけながらまんじりともせず、夜を明かしておしまいになりました。
いつものようには、優しいお言葉を小君にかけておやりにもならず、まだ暗いうちにお帰りになりますので、小君はお気の毒でならず、また物足りなくも、淋しく思うのでした。
女もその後、一方ならず心がとがめていましたが、源氏の君からのお便りはあれっきり、ふっつりと絶えてしまいました。
さすがに、お懲りになられたのだろうと思いながらも、
「もしこのまま、お怒りになってあきらめておしまいになったら、どんなにか辛く悲しいだろう。かといって、おの御無体な困ったお振舞いが、この後もつづくとしたら、いたたまれないことだし、やはり、このあたりでこんな密かな事は打ち切ってしまわなければ」
と思うのす。それでもやはり心はおさまらず、ともすれば暗く沈みがちなもの思いに捕らわれていくのでした。
源氏の君は、あまりにもひどい女だとお恨みになりながらも、このままでは思いきれないと、お心にかかり、不面目なことだと口惜しがり悩んでいらっしゃいます。
小君に、
「あの人の仕打ちがあんまりひどくていまいましいので、無理にもあきらめようとするのに、心がいうことをきかないで、どうしてもあきらめきれない。苦しくてたまらないから、もう一度逢えるよう、何とかいい機会をつくっておくれ」
と、くりかえしおっしゃいます。
小君は当惑しながらも、こんなことででも源氏の君から親しく相談されるのは嬉しいのでした。子供心にも、何とかしていい折はないものかと窺っています。
たまたまその頃、紀伊の守が任国へ出かけて行きました。留守宅には女たちばかりがのんびりくつろいでいるのを見つけた小君は、ある日、自分の車に源氏の君を乗せて、道もおぼつかない夕闇にまぎれて、御案内したのでした。
この子もまだ幼いから、こんな取りもちが果たしてうまく出きるのだろうかと、源氏の君は頼りなくお思いになります。かといって、そう悠長にもかまえていらっしゃれないお気持ちなので、さりげないお忍びの狩衣 (カリギヌ) 姿で、門など閉められないうちにと、急いでお出かけになりました。
小君は人目のない門から車を引き入れて、源氏の君をお下ろしします。まだ子供なので、宿直の者なども格別気にも止めず、近よってきて愛想など言わないのが、かえって好都合でした。
寝殿の東側の妻戸の所に、源氏の君をお立たせしておいて、小君は南側の隅の間から格子をわざと音高く叩き、大きな声で呼びかけながら廂 (ヒサシ) の間に入っていきました。
「あとを閉めないと、中がまる見えですよ」
と女房たちの声が聞こえます。
「どうして、こんなに暑いのに、格子なんか下ろしておくの」
と小君が聞きますと、
「昼から、西の対 (タイ) の紀伊の守さまの妹君がお越しになって、碁を打っていらっしゃるのです」
と言います。
源氏の君は、それなら向い合って碁を打っている女たちの姿を、見たいものだとお思いになり、そっと歩き出して、簾の隙間に忍びこまれました。
新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ