越前に一年ほど滞在して、なぜか単身帰京した式部は、父ほどの年齢の藤原宣孝
(ノブタカ) と結婚する。
宣孝は、為時と同じ家系の流れではあるが、この一族は文学的というより実務的な才があり、それぞれ仕官して世渡りも上手かった。宣孝も、右衛門
(ウエモン) の権佐 (ゴンノスケ)
、兼山城の守で、受領といっても羽振がよかった。
すでに何人かの妻もあり、その子たちもあった。姻戚関係でもあったせいで、宣孝は早くから紫式部を知っていただろう。
式部の少女時代、姉と二人で寝ている所へ、方違 (カタガエ)
に来ていた宣孝が明け方しのんできて、 「なまおぼおぼしきことありて帰りにける翌朝 (ツトメテ)
」 という詞書のある歌を紫式部は詠んで、朝顔の花にそえて、自分から宣孝に贈ったと、書き残している。
「なまおぼおぼしきこと」 というのは、曖昧なはっきりしない、情事とでもいう意味だが、姉と妹のどちらに、そのことがあったかもはっきりしない。
「おぼつかな それかあらぬか 明ぐれの 空おぼれする 朝顔の花」
という歌は、 「あなたの顔を見てしまったわよ、とぼけたって」 というほどの意味だから、やはり、紫式部の身に起こったことと解していいだろう。
娘時代の紫式部は、なかなか積極的でおきゃんだったのかも知れない。
宣孝は、地味な為時とはちかって、相当派手な自己顕示欲の強い男であったらしい。
清少納言の 「枕草子」 に、金峯山詣 (キンプセンモウ)
での時、宣孝が非常識にきらびやかな服装をして人々を驚かせたという逸話が載っている。職務怠慢で勅勘を受けた話なども伝わっている。女にかけても自信家で実績も挙げていたのだろう。
おそらく紫式部は、この未婚時代から、あるいは十三、四歳から、もう物語りに筆を染めていたのではないだろうか。紫式部ほどの天才は、早熟と決まっていて、そうした才能は、早々と芽を出すものだからである。
当時は印刷術はまだなく、物語類は全部手写しであった。姉や友達が面白がって写し、読者となってくれ、それが口コミで伝わり、写す人が多くなり、評判を高めるというパターンで、紫式部の文才は、まわりでは相当認められていたと想像出来る。
ともかく紫式部は宣孝との間に、一人の女の子賢子 (ケンシ)
を産み、宣孝は、その子を紫式部に与えると間もなく病死してしまった。
結婚生活はわずか三年余りであった。長保三年 (1001)
のことである。それから四、五年、紫式部は未亡人として家に引きこもっていた。その間、誘惑が全くなかったわけでもなさそうだが、誰も寄せつけていない。おそらくその四、五年に、夫を失った淋しさと心の空虚を満たすのには、物語を書くことが、最適だったのではなかっただろうか。
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