〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 
2008/02/18 (月) 桐 壺 (十一)
命婦は、まだ大殿籠 (オオトノゴモ) らせたまはざりけると、あはれに見たてまつる。
御前 (オマエ) の壺前栽 (ツボサンザイ) の、いとおもしろきさかりなるを、御覧ずるやうにて、忍びやかに、心にくき限りの女房四五人さぶらはせたまひて、御物語せさせたまふなりけり。
このころ、明け暮れ御覧ずる長恨歌 (チョウゴンカ) の御絵、亭子院 (テイジノイン) の書かせたまひて、伊勢 (イセ) 、貫之 (ツラユキ) によませたまへる、大和言の葉をも、唐土の詩をも、ただその筋 (スジ) をぞ、枕言 (マクラゴト) にせさせたまふ。
いとこまやかにありさま問はせたまふ、あはれなりつること忍びやかに奏す。御返り御覧ずれば、
いともかしこきは置き所もはべらず。かかる仰せ言につけても、かきくらす乱りごこちになむ。
荒き風 ふせぎしかげの 枯れしより
     小萩 (コハギ) がうへぞ 静心 (シヅココロ) なき
などやうに乱りがはしきを、心をさめざりけるほどと、御覧じ許すべし。
いとかうしも見えじと、おぼししづむれど、さらにゑ忍びあへさせたまはず、御覧じはじめし年月のことさへかき集め、よろづにおぼしつづけられて、時の間もおぼつかなかりしを、かくても月日は経にけりと、あさましうおぼしめさる。
「大納言の遺言あやまたず、宮仕への本意深くものしたりしよろこびは、かひあるさまにとこそ思ひわたりつれ。いふかいなしや」
とうちのたまはさせて、いとあはれにおぼしやる。
「かくても、おのづから若宮など生ひいでたまはば、さるべきついでもありなむ。命長くとこそ思ひ念ぜめ」
などのたまはす。
かの贈り物御覧ぜさす。亡き人の住処 (スミカ) 尋ねいでたりけむ、しるしの釵 (カンザシ) ならましかば、と思ほすも、いとかひなし。
尋ねゆく 幻もがな つてにても 魂 (タマ) のありかを そこと知るべく
絵にかける楊貴妃の容貌 (カタチ) は、いみじき絵師といへども、筆かぎりありければ、いとほひ少なし。
太液 (タイエキ) の扶養、未央 (ビオウ) の柳も、げに通ひたりし容貌 (カタチ) を、唐めいたるよそひはうるはしうこそありけめ、なつかしうろうたげなりしをおぼしいづるに、花鳥の色にも音 (ネ) にもよそふべきかたぞなき。
朝夕の言種 (コトクサ) に、翼をならべ、枝をかはさむと契らせたまひしに、かなはざりける命のほどぞ、つきせずうらめしき。
風の音 (オト) 、虫の音 (ネ) につけても、もののみ悲しうおぼさるるみ、弘徽殿 (コキデン) には、久しく上への御局にもまうのぼりたまはず、月のおもしろきに、夜ふくるまで遊びをぞしたまふるなる。いとすさまじう、ものしときこしめす。
(口語訳・瀬戸内 寂聴)
宮中に帰った命婦は帝がまだお寝みになっていらっしゃらなかったのを、おいたわしく思うのでした。
中庭の秋草の花が今を盛りと美しく咲き匂っているのを、ご覧になるふうをして、気配りのきくやさしい女房四、五人だけをおそばにお呼びになり、しんみりとお話などしていらっしゃるのでした。
この頃は、宇多上皇がお書かせになった長恨歌の絵を、明け暮れご覧になっていらっしゃいます。
長恨歌は玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を題材にした詩で、その絵に添えてある伊勢や紀貫之の和歌だとか漢詩などでも、恋人との死別の悲しみを歌ったものだけを口ずさまれ、そういうお話ばかりを常に話題にしていらっしゃいます。
帝は命婦にたいそう細やかに、更衣のお里の御様子をお尋ねになります。命婦はしべてが哀れのかぎりであったことを、しみじみお伝え申し上げます。母君からのお返事をご覧になると、
「勿体ないお手紙は畏れ多くて置く場所もございません。このような有り難い仰せごとにつけても、亡き人が生きていればと、心も真っ暗になり、思い乱れるばかりでして」
荒き風 ふせぎしかげの 枯れしより
     小萩 (コハギ) がうへぞ 静心 (シヅココロ) なき
(荒々しい風からいつも小萩を守っていたあの木。あの木が枯れた日から、小萩はどうだろうと案じられてならない)

などというように、帝を無視したように、取り乱しているのですが、それも、悲しみのあまり心が転倒している時だから無理もないと、帝はお見逃しくださるのでしょう。
帝御自身も、
「こんな風に取り乱したさまは、人には見せたくない」
と、お心を静められるのですが、とても辛抱がお出来になりません。
初めて更衣にお逢いになった頃の思い出までかき集め、あれこれと限りなく懐古なさりつづけて、生前は、束の間も逢わずにいられなかったのに、よくぞまあ、こうして死別した月日を過ごせたものだと、呆れ果てておしまいになるのでした。
「故大納言の遺言に背かず、宮仕えの本意を立て通してくれた礼としては、いつかは更衣を女御や中宮にして報いてやりたいと思い続けていたのに、それも今は甲斐ないことになってしまった」
と、帝は仰せになり、母君の身をいっそう哀れに思いやられます。
「しかしまあ、そのうち若君が成長した暁には、当然、若宮の身にも、それ相応の喜びごとがおこるだろう。せいぜい長生きするように心がけることだ」
などともおっしゃいます。
命婦が母君からの贈物をお目にかけました。
帝は、これが亡き楊貴妃のあの世の棲家を探しあてた幻術士に、楊貴妃が託して玄宗皇帝に贈った形見の釵であったならば、などとお思いになられるのも詮ないことでした。

尋ねゆく 幻もがな つてにても 魂 (タマ) のありかを そこと知るべく

(あの世まで楊貴妃を探し求めたかの幻術士よ、わたしの前にもあらわれてほしい。あの人の魂魄の行方を探してその在処を知らせてほしい)
絵に描いた楊貴妃の容姿は、いくら腕のすぐれた絵師といっても、筆の力には限りがありますから、何としても生身の色香は写しきれません。
太液の池の扶養 (ハチス) や未央宮 (ビオウキュウ) の柳に、ほんとうによく似ていたと、長恨歌に歌われた楊貴妃の容姿は、唐風の装いを凝らして、さぞ端麗だったでしょうけれども、更衣のやさしく、可憐だった生前の面影を思い出されますと、それは花の色にも鳥の声にも、たとえようもないでした。
朝夕のお二人の愛の誓いには、
「天にあっては比翼の鳥、地にあっては連理の枝となろう」
と、長恨歌の詩句を固くお約束なさったものなのに、それも果たせなかったはかない更衣の薄命さこそ、限りなく恨めしく思われてなりません。
風の声、虫の音につけても、帝にはこの世すべてのものがもの悲しく思われますのに、弘徽殿 (コキデン) の女御は、帝のお召しのないまま、久しく清涼殿の御局にもお上がりにならず、その夜の月の美しさを観賞なさって、夜おそくまで管弦のお遊びに興じていらっしゃいます。
帝は、伝わってくるその賑やかな楽の音をお耳になされ、
「何という気性の烈しい人だろう、不愉快な」
と苦々しくお思いになります。
新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ