〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 
2008/02/18 (月) 桐 壺 (十)
「上もしかなむ。
『わが御心ながら、あながちに人目おどろくばかりおぼされしも、長かるまじきなりけりと、今はつらかりける人の契りになむ。世にいささかも、人の心をまげたることはあらじと思ふを、ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき人の恨みを負ひ果て果ては、かううち捨てられて、心をさめむかたなきに、いとど人わろうかたくなになり果てつるも、前の世ゆかしうなむ』
と語りて尽きせず。泣く泣く、
「夜いたうぬけぬれば、今宵過ぐさず、御返り奏せむ」 と急ぎ参る。
月は入りかたの空清う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、草むらの虫の声々もよほし顔なるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。
鈴虫の 声の限りを尽くしても 長き夜あかず ふる涙かな
えも乗りやらず。
「いとどしく 虫の音 (ネ) しげき 浅茅生 (アサヂフ)
      露おき添うふる 雲の上人 (ウエビト)
かことも聞こえつべくなむ」 と言はせたまふ。
おかしき御贈り物などあるべきおりにもあらねば、ただかの御かたみにとて、かかる用もやと残したまへりける御装束 (ソウゾク) 一領 (ヒトクダリ) 、御髪上 (ミグシアゲ) の調度めく物添へたまふ。
若き人々、悲しきことはわらにもいはず、内裏 (ウチ) わたりを朝夕にならひて、いとさうざうしく、上の御ありさまなど思ひいできこゆれば、とく参りたまはむことをそそのかしきこゆれど、かくいまいましき身の添ひたてまつらむも、いと人聞き憂かるべし、また、見たてまつらでしばしもあらむは、いとうしろめとう思ひきこえたまひて、すがすがともえ参らせたてまつりたまはぬねりけり。
(口語訳・瀬戸内 寂聴)
「帝もそのように仰せでいらっしゃいます。
『わが心ながらも、あれほど一途に、人目を見張らせ驚かすほど、あの人を思い詰め愛したと言うのも、所詮は長く連れ添えない縁であったからなのだろう。今ではかえって辛い契りだったと切ない。これまで自分は少しでも人々の気持ちを傷つけたような覚えはないと思うのだけれど、ただこの人ひとりのために、思わぬ多くの人々から、受けずともよい恨みを負うたあげくの果てに、こんなふうに、一人後にうち捨てられて、悲しみを静めるすべさえなく、いよいよ前にもましてみっともない愚かな者になってしまった。いったい前世であの人と、どういう縁を結んでいたのか知りたいものだ』
と、くり返されて、お涙がちでいらっしゃいます」
と、命婦が帝の御様子を話されるにつけても、お話は尽きないのでした。
やがて命婦は泣く泣く、
「夜もたいそう更けてしまいましたので、夜の明けぬうちに戻って、御返事を奏上いたしましょう」
と、急いで立ち帰ろうとします。
月は西の山の端に入りかけて、空は清らかに澄み渡り、風がすっかり涼しくなり、草むらの虫の声々も涙を誘うようにもに悲しく、なかなか立ち去り難い庭の風情でした。
鈴虫の 声の限りを尽くしても 長き夜あかず ふる涙かな
(声を限りに鳴き尽くすいじらしい鈴虫のように、長い秋の夜を泣き通すそのわたしの涙は飽きもせずいつまでも降りそそぐ )
そういって命婦は、車に乗りかねています。

いとどしく 虫の音 (ネ) しげき 浅茅生 (アサヂフ) に
          露おき添うふる 雲の上人 (ウエビト)

(浅茅生が宿の草の中、虫の音しげく人も泣く雲の上人訪 (オトナ) えば、やさしい言葉の数々に、涙はさらにいや増して)

「つい、こんなこ愚痴まで申しあげたくなりまして」
と、女房から伝えさせました。
風情のある贈り物などはする場合でもないので、ただ亡き更衣の形見にと、こいう時に役立つかと残しておいた衣裳の一揃いに、御髪 (ミグシ) 上げの櫛 (クシ) や釵 (カンザシ) などを取り揃えてさし上げました。
若い女房たちは、更衣の死を悲しむことはいうまでもないとして、これまでは、宮中での暮らしに朝夕馴れていましたので、淋しくてたまりません。帝の御様子などを思い出すにつけても、若宮と早く参内されるよう、母君におすすめするのでしたが、
「わたしのような縁起の悪い年寄りがお供してゆくのは、さじかし世間の聞こえもよくないことでしょう。また、そうかといって、若宮にほんのしばらくでもお目にかかれないと、それこそ心配なことでしょうし」
など思い迷って、母君はきっぱりと若宮を宮中におつれすることも出来ないのでした。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ