この御子三つになりたまふ年、御袴着 (ハカマギ) のこと、一の宮のたてまつりしに劣らず、内蔵寮
(クラヅカサ) 、納殿
(ヲサメドノ) の物を尽くして、いみじゅうさせたまふ。
それにつけても、世のそしりのみ多かれど、この御子のおよすけもておはする御容貌 (カタチ)
、心ばへ、ありがたくめづらしきまで見えたまふを、え妬みあへたまはず。ものの心知りたまふ人は、かかる人も世にいでおはするものなりけりと、あさましきまで目をおどろかしたまふ。
その年の夏、御息所 (ミヤスンドコロ) 、はかなきここちにわづらひて、まかでなむとしたまふを、暇さらに許させたまはず。
年ごろ、常のあつさになりたまへば、御目馴れて、 「なほしばしこころみよ」 とのみのたまはするに、日々におもりたまひて、ただ五六日のほどに、いと弱うなれば、母君泣く泣く奏して、まかでさせたてまつりたまふ。
かかるをりにも、あるまじき恥もこそと心づかいして、御子をばとどめたてまつりて、忍びてぞいでたまふ。
限りあれば、さのみもえとどめさせたまはず、御覧じだに送らぬおぼつかなさを、いふかたなく思ほさる。
いとにほひやかに、うつくしげなる人の、いたう面痩せて、いとあはれとものを思ひしながら、言 (コト)
にいでても聞えやらず、あるかなきかに消え入りつつものしたまふを御覧ずるに、来しかた行く末おぼしめされず、よろずのことを、泣く泣く契りのたまはすれど、御いらへも聞こえたまはず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、我かのけしきにて臥したれば、いかさまにとおぼしめしまどはる。
輦車 (テグルマ) の宣旨などのたまはせても、また入らせたまひて、さらにえ許させたまはず。
「限りあらむ道にも、おくれ先立たじと契らせたまひけるを、さりともうち捨てては、え行きやらじ」
とのたまはするを、女もいといみじと見たてまつりて、
「限りとて 別るる道の 悲しさに いかまほしきは 命なりけり
いとかく思うたまへましかば」 と、息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、かくながら、ともかくもならむを御覧じ果てむとおぼしめすに、
「今日始むべき祈りども、さるべき人々うけたまはれる、今宵より」
と聞こえ急がせば、わりなく思ほしながら、まかでさせたなふ。
御胸つとふたがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせたまふ。
御使の行きかふほどもなきに、なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを、
「夜中うち過ぐるほどになむ、絶えはてたまひぬ」
とて泣き騒げば、御使もいとあへなくて帰り参りぬ。きこしめす御心まどひ、何ごともおぼしめし分かれず、籠りおはします。
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