〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/04/15 (火) 帚 木 (三十)

例の、内裏に日数経たまふところ、さるべきかたの忌み待ちいでたまふ。 にはかにまかでたまふまねして、道のほどよりおはしましたり。
紀伊の守おどろきて、遣水 (ヤリミズ) の面目 (メイボク) とかしきまりよろこぶ。
小君には、昼より、かくなむ思ひよれると、のたまひ契れり。明け暮れまつは馴らしたまひければ、今宵もまづ召し出でたり。女も、さる御消息ありけるに、おぼしたばかりつらむほどは、浅くしも思ひなされねど、さりとて、うちとけ人げなきありさまを見えたてまつりても、あぢきなく、夢のやうにて過ぎにし嘆きをまたや加えむ、と思ひ乱れて、なほさて待ちつけきこえさせむことのまばゆければ、小君が出でて去ぬるほどに、
「いとけぢかければ、かたはらいたし。なやましければ忍びてうちたたかせなどせむに、ほど離れてを」
とて渡殿 (ワタドノ) に、中将といひしが局したる隠れうつろひぬ。
さる心して、人疾くしづめて、御消息あれど、小君は尋ねあはず。 よろづの所求めあさりて、渡殿に分け入りて、からうしてたどり来たり。
いとあさましくつらしと思ひて、 「いかにかひなしとおぼさむ」 と、泣きぬばかり言へば、
「かくけしからぬ心ばへは、つかふものか。幼き人のかかること言ひ伝ふるは、いみじく忌むなるものを」 と言ひおどして、
「ここちなやましければ、人々避けず、おさへさせてなむ、と聞こえさせよ。あやしと誰も誰も見るらむ」
と言い放ちて、心のうちには、いとかく品定まるぬる身のおぼえならで、過ぎにし親の御けはひとまれるふるさとながら、たまさかにも待ちつけたてまつらば、をかしうもやあらまし、しひて思ひ知らぬ顔に見消 (ケ) つも、いかほど知らぬやうにおぼすらむ、と、心ながらも、胸いたくさすがに思ひみだる。 とてもかくても、今はいふかひなき宿世なりければ、無心 (ムジン) に心づきなくて止みなむ、と思ひ果てたり。
君は、いかにたばかりなさむ、と、まだ幼きをうしろめたく待ち臥したまへるに、不用なるよしを聞こゆれば、あさましくめづらかなりける心のほどを 「身もいとはづかしくこそなりぬれ」 と、いといとほしき御けしきなり。とばかりものものたまはず、いたくうめきて、憂しとおぼしたり。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

例のように、宮中で幾日もお過ごしになっていらっしゃる頃でした。口実になさるのに都合のよい方塞 (カタフサガ) りの日を、かねてから待ちもうけていらっしゃって、その日を逃さず方違えと称してまたお出かけになりました。
急に宮中から左大臣邸へ退出なさる御様子をつくろい、その道の途中から、例の中川の家へお越しになります。紀伊の守は驚きましたが、自慢の遣水がお気に召されたのを、この上もない名誉だと、恐縮して喜んでおります。
小君には昼から、こういう予定だからと、手はずを話してありました。小君は明け暮れ親しくおそばに召し使っていましたので、今夜もまっ先にお呼び出しになります。
女も、源氏の君からそういうつもりのお便りをいただいておりましたので、人をだますそんな苦心の手だてまでもなさってお訪ね下さるお心は、決して浅くはないと有り難く思うのでした。けれども、お逢いして身も心も許して情熱にまかせると、自分のみじめな姿のすべてをお目にかけてしまうのも味気ない上、あの夢のように過ぎてしまったはかない一夜の嘆きを、またも重ねるのだろうかと、思い乱れています。
やはりこんなふうに、源氏の君のお忍びの訪れをお待ちするのは面映いので、小君が源氏の君に召されて立ち去った後で、
「ここは御座所にあまり近いので、気がひけます。わたしは気分が悪くて、こっそり肩や腰を叩いてほしいから、離れた所に行きましょう」
と言って、渡り廊下に、あの中将の君という局がありましたので、そこへこっそり身を隠すため移りました。
源氏の君は女の許へ忍んでいくおつもりで、供の者たちを早く寝かせて、お手紙を持たせましたが、使いの小君は、姉の居所をつきとめることが出来ませんでした。あらゆる所を探し歩いて渡り廊下に入りこみ、ようやく探し当ててたどりつきました。小君は姉のこういう仕打ちをあまりにも情けなく、ひどいと思って、
「ひどいなあ、源氏の君はわたしを、何という役立たずの者とお思いになるでしょう」
と泣きださんばかりになって恨みます。
「お前こそ、どうしてこんなよくない心遣いをするのですか。子どものくせに、こんなことの取次ぎをするのは、たいそういけないことなのですよ」
と叱りつけて、
「わたしは気分がとても悪いので、女房たちに側にいてもらって、体を揉ませておりますと、源氏の君に申し上げなさい。お前がこんなところにうろうろしていたら、誰だって変だと怪しむでしょうよ」
と、きっぱり言いきって、心のうちでは、ああ、こんなふうに受領の妻という身分が決まってしまった境遇ではなく、亡くなった両親の思い出の残った生家にいて、たまさかにでも、源氏の君のお通い下さるのをお待ち申し上げるのだったなら、どんなに楽しいことだろうに。
せっかくのお気持ちを強いて感じないふりを装ってはいるものの、どんなにか身の程知らぬ女とお思いになられるだろうと、自分で決心したことなのに、さすがに胸がねじれそうに痛く、あれこれと思い乱れてしまうのでした。
けれども、今はどうしようもない自分の宿世なのだから、あくまで情のきつい、いやな女のままで押し通そうと、覚悟をきめたのでした。
源氏の君は、小君がどうやって姉を説きつけてくるかと、なにしろまだ子供なのを心もとなく思われながらも、横になって待っていらっしゃいました。
小君が帰ってきて、やはり不首尾だった次第をお話しましたら、
「あまりにも珍しい頑固なあの人の気強さに、つくづくわたしも自分が恥ずかしくなってしまった」
と、おっしゃる御様子が、小君にはおいたわしくてなりません。しばらくはお口もきかれず、深い不満のため息をおもらしになって、いかにもつらそうにうち沈んでいらっしゃるのでした。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ