〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/04/14 (月) 帚 木 (二十八)

このほどは大殿にのみおはそます。
なほ、いとかき絶えて思ふらむことのいとほしく御心にかかりて、苦しくおぼいわびて、紀伊の守を召したり。
「かのありし中納言の子は得させてむや。らうたげに見えしを、身近く使ふ人にせむ。上にもわれたてまつらむ」
とのたまはば、
「いとかしこき仰せ言にはべるなり。姉なる人にのたまひみむ」 と申すも、胸つぶれておほせど、
「その姉君は、朝臣 (アソン) の弟や持 (モ) たる」
「さもはべらず。この二年ばかりぞ、かくてものしはべれど、親のおきてに違へりと思ひ嘆きて、心ゆかぬやうになむ聞きたまふる」
「あはれのことや。よろしく聞こえし人ぞかし。まことによしや」 とのたまへば、
「けしうははべらざるべし。もて離れてうとうとしくはべれば、世のたとひにてむつびはべらず」 と申す。
さて五六日ありて、この子率 (イ) て参れり。こまやかにをかしとはなけれど、なまめきたるさまして、あて人と見えたり。召し入れて、いとなつかしくかたらひたまふ。
(ワラベ) ここちに、いとめでたくうれしと思ふ。いもうとの君のこともくはしく問ひたまふ。
さるべきことは答 (イラ) へきこえなどして、はづかしげにしづまりたれば、うちいでにくし。されど、いとよく言ひ知らせたまふ。かかることこそはと、ほの心得るも、思ひのほかなれど、幼きごこちに深くしもたどらず、御文を持て来たれば、女、あさましきに涙も出 (イ) で来 (キ) ぬ。この子の思ふらむこともはしたなくて、さすがに、御文を面隠 (オモガク) しひろげたり。
いと多くて。

「『見し夢を あふ夜ありやと 嘆くまに 目さへあはでぞ ころも経にける』 寝る夜なければ」 
など、目も及ばぬ御書きざまも、霧ふたがりて、心得ぬ宿世うち添へりける身を思ひ続けて臥したまへり。
(口語訳・瀬戸内 寂聴)

この頃は源氏の君は左大臣邸にばかりおいでになります。やはりあれきりずっと音沙汰もしていませんので、女がどんなに思い悩んでいることかと、いとおしくお心にかかって、思い悩まれたあげく、紀伊の守をお呼び寄せになりました。
「あの、この間の衛門の督の子を、わたしによこしてもらえまいか。可愛らしい顔立ちだったから、身近において召し使いたい。帝にもわたしからお話して殿上童にさせてあげよう」
とおっしゃいますので、紀伊の守は、
「それはほんとうに有り難いお言葉でございます。あの子の姉に、その仰せをお伝えしてみましょう」 と申し上げます。
源氏の君はそれを聞くだけでも、思わずお胸がどきりとなさいますが、さりげなく、
「ところで、あの姉君は、そなたの弟を生んでいるのか」 とお聞きになります。
「いえ、そういうことはございません。父に添いまして二年ほどになりますが、親が宮仕えさせようと願っていた意向とは、違った境遇になってしまいましたと悔やみまして、当人はどうやら父とに結婚を不服に思っているようにも聞いております」
「可愛そうに、娘時代は相当な器量よしと評判だったということだが、ほんとうにそんなに綺麗かね」
とお訊きになりますと、
「悪くはございませんでしょう。義母 (ハハ) はわたしにはじめから冷淡な態度をとり全くよそよそしくします。世間の噂にも 『継子と継母は近づかない方がいい』 とか申しますように、わたしはつとめて敬遠しております」 と申し上げます。
それから五、六日して、紀伊の守が、あの少年を連れて参りました。よく見れば、取りたてて特に美しいというほどではないのですけれど、どこやら物腰に優雅なところがあって、貴族の子弟らしく見えます。お側近くに召し寄せて、小君とお呼びになり、たいそう親身にお話かけになりますので、子ども心にも、源氏の君をとても立派なお方だと、嬉しく有り難く思うのでして。
姉君のこともいろいろくわしくお訊きになられます。小君はお答えできることは、きちんとお返事申し上げたりして、まだ小さいのに源氏の君が気恥ずかしいくらい落ち着いていますので、話を切り出しにくいのです。
それでもたいそううまく取りとりつくろい、姉との関係をよく言い聞かせておやりになりました。
さてはふたりの間にそういうことがあったのかと、小君にもいくらかうっすらと分かってきて、意外な思いをするのですが、子ども心には深い考えもなく、源氏の君に命じられるままに、お手紙を姉に届けたのでした。
女はあさましさに涙さえあふれました。この弟もどう思っていることかとはしたなくて、それでもさすがにお手紙を突きかえすわけにもゆかず、顔をかくすようにして、ひろげました。長々としたためられている終わりに

見し夢を あふ夜ありやと 嘆くまに 目さへあはでぞ ころも経にける
(夢のようだった はかない逢瀬を 今一度夢にも見るかと 嘆くまま眠られぬ夜の またも過ぎゆく)
「恋しさをどうなぐさめたらいいのでしょう。 <夢だに見えず寝る夜なければ> の歌のとおりです」
などと書かれた、眩いほどの御立派なお筆の跡も、涙に曇って女には読みきれないのでした。
受領の妻になった運命の上に、今また源氏の君に愛されて、思いがけないあやしい因縁が新たにまた一つ加わった自分の悲しい運命を思い続けて、女は打ち臥してしまうのでした。
新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ