〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/04/11 (金) 帚 木 (二十七)

(トリ) も鳴きぬ。人々起きいでて、 「いといぎたなかりける夜かな。御車ひき出でよ」 など言ふなり。
守も出で来て、 「女などの御方違 (タガ) へこそ。夜深く急がせたまふべきかは」 など言ふもあり。
君は、またかやうのついであらむこともいとかたく、さしはへてはいかでか、御文なども通はむことのいとわりなきをおぼすに、いと胸いたし。
奥の中将も出でて、いと苦しがれば、ゆるしたまひても、また引きとどめたまひつつ、
「いかで聞こゆべき。世に知らぬ御心のつらさも、あはれも、浅からぬ世の思ひ出は、さまざまめづらかなるべき例 (タメシ) かな」 とて、うち泣きたまふけしき、いとなまめきたり。
鶏もしばしば鳴くに、心あわたたしくて

つれなきを 恨みも果てぬ しののめに とりあへぬまで おどろかすなむ
女、身のありさまを思ふに、いとつきなくまばゆきここちして、めでたき御もてなしも、何ともおぼえず、常はいとすくすくしく心づきなしと思ひあなづる、伊予のかたの思ひやられて、夢にや見ゆらむ、と、そら恐ろしくつつまし。
身の憂さを なげくにあかで あくる夜は とり重ねてぞ 音もまかれける
ことと明 (アカ) くなれば、障子口まで送りたまふ。
うちも外も人騒がしければ、引きたてて別れたまふほど、心細く、隔つる関と見えたり。
御直衣 (ナホシ) など着たまひて、南の高欄 (カウラン) にしばしうちながめたまふ。
西面 (オモテ) の格子そそきあげて、人々のじくべためる。 簀子 (スノコ) の中のほどに立てたる小障子の上より、ほのかに見たまへる御ありさまを、身にしむばかりに思へる、すき心どもあめり。
月は有明にて、光をさまれるものから、かほけざやかに見えて、なかなかおかしき曙なり。
何心なき空のけしきも、ただ見る人から、艶にもすごく見ゆるなりけり。
人知れぬ御心には、いと胸いたく、ことつてやらむよすがだになきを、と、かへりみがちにて出でたまひぬ。
殿に帰りたまひても、とみにまどろまれたまはず。
またあひ見るべきかたなきを、まして、かの人の思ふらむ心のうち、いかならむと、心苦しく思ひやりたまふ。
すぐれたることはなけれど、めやすくもてつけてもありつる中の品かな、隅なく見集めたる人の言ひしことは、げに、とおぼしあはせられけり。
(口語訳・瀬戸内 寂聴)

暁の鶏が鳴きました。お供の人々が起き出して、
「ああ、ひどく寝過してしまった」
「さあ御車を引き出せ」
などと言う声が聞こえます。紀伊の守も出て来て、
「女君などの御方違えならいざ知らず、こんな暗いうちから急いでお帰りなさることもないでしょう」
などと言っています。
源氏の君は、こんな機会がまたありそうだとはとうてい思えず、わざわざ逢いにいらっしゃられるわけもなく、お手紙のやりとりさえとても無理だろうとお思いになるにつけ、お心が痛んでなりません。
奥から中将の君も迎えに来て、ひどく困っていますので、いったんは女を放しておやりになりながら、また引きとどめられて、
「この後、どうやって手紙をあげたらいいのだろう。世にも希なあなたの冷たい仕打ちのつらさも、わたしの恋の深いせつなさも、ふたつながら浅からぬ恋の一夜の思い出になりました。いったいこんな珍しいせつない話がまたとあるでしょうか」
と、お泣きになるお姿は、言いようもなくなまめかしいものでした。
鶏もしきりに鳴きますので、お心せかされて、

つれなきを 恨みも果てぬ しののめに とりあへぬまで おどろかすなむ
(世にもつれなくあしらわれ 恨みのたけも言えぬ間に はやもう東の空は白み 暁の鶏はしきりに鳴きたて どうしてわたしを起こすのだろう)
とお詠みになります。
女は自分の境遇や、器量や、年齢を考えますと、あまりにも不似合いで恥ずかしくて、身に余るほどの有り難い御執心や、こまやかな一夜の愛撫にも心が動かず、かえっていつもは無骨で嫌だと蔑んでいた伊予の老夫のことばかりが思いやられるのでした。
もしかしたら、昨夜の事を、夫が夢にでも見はしなかったかと思い、恐ろしく身がくすむのでした。
身の憂さを なげくにあかで あくる夜は とり重ねてぞ 音もまかれける
(情けないわが身の悩み 泣き嘆き流す涙に 寝もやらず明けた朝 鳴く鶏の声に重ね わが泣き声のまた高く)
見る見る明るくなっていくので、襖口まで送っておいでになりました。
家の内も外も人々がざわめいてきましたので、仕方なく二人の間に襖を閉めて、お別れになる時は、淋しく心細くて、襖一枚が、仲を隔てる関所の扉のように思われます。
女の去った後では、御直衣 (ノウシ) などをお召しになって、南の高欄からしばらく茫然と、あたりを眺めていらっしゃいます。
西側の格子を音立てて上げ、女房たちがこちらを覗いているようです。
縁の中ほどに立てた低い衝立 (ツイタテ) の上の方から、ほのかに見えていらっしゃる源氏の君のお姿を、身にしむばかりにお美しいと、お慕いしている浮気な女房たちもいるようです。
月は有明で、輝く光はすでに薄れていながら、月影はまだ鮮やかに残っているのが、かえって風情の深い曙の景色でした。
無心な空の景色も、眺める人の気持ちのせいで、なまめかしくも、淋しくも見えるのです。人知れぬ源氏の君のお心のうちに映える風景はどんなだったことでしょう。悲しく、せつばい思いを胸に抱きしめ、女に手紙をやる手がかりさえないのにと、あの家の方を振りかえり振りかえりお帰りになられました。
お邸に帰りつかれてからも、すぐにはお寝みになれません。ふたたびの逢瀬の手だてもみつからず、
「あの人こそ今頃はどんなに悩み沈んでいるだろう」
と、女の心のうちをせつなく思いやっていらっしゃいます。とりわけいい器量というわけでもなかったけれど、すべてにつけて、見苦しくないたしなみが身にそなわっていた様子は、あれこそ中流の上の女というのだろうか。経験豊富な左馬の頭が、中の上の女に掘出し物があると言ったのは、たしかに当っていたと、納得されるのでした。
新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ