〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/04/10 (木) 帚 木 (二十六)

皆しづまりたるけはひなれば、かけがねをこころみに引きあげたまへれば、あなたよりは鎖 (サ) さざりけり。
几帳を障子口に立てて、火はほの暗きに見たまへば、唐櫃 (カラヒツ) だつ物どもを置きたれば、みだりがはしきなかを、分け入りたまへば、ただひとりいとささやかにて臥したり。
なまわづらはしけれど、上なる衣 (キヌ) 押しやるまで、求めつる人と思へり。
「中将召しつればなむ、人知れぬ思ひのしるしあるここちして」 とのたまふを、ともかくも思ひわかれず、ものにおそはるるここちして、 「や」 とおびゆれど、顔に衣 (キヌ) のさはりて、音にも立てず。
「うちつけに、深かからぬ心のほどと見たまふらむ、ことわりなれど、年ごろ思ひわたる心のうちも、聞こえ知らせむとてなむ。かかろをりを待ちいでたるも、さらに浅くはあらじと思ひなしたまへ」
と、いとやはらかにのたまひて、鬼神 (オニカミ) もあらだつまじきけはひなれば、はしたなく、 「ここに、人」 とも、えののしらず。
ここちはた、わびしく、あるまじきこと戸思へば、あさましく、
「人違 (タガ) へにこそはべるめれ」
と言ふも息の下なり。消えまどへるけしき、いと心苦しくらうらげなれば、をかしきと見たまひて、
「違 (タガ) ふべくみあらぬ心のしるべを、思はずにもおぼめいたまふかな。すきがましきさまには、よに見えたてまつらじ。思ふことすこし聞こゆべきぞ」
とて、いとちひさやかなれば、かき抱きて、障子のもと出でたまふにぞ、求めつる中将だつ人来あひたる。
「やや」 とのたまふに、あやしくて、探り寄りたるにぞ、いみじくにほひみちて、顔にもくゆりかかるここちするに、思ひ寄りぬ。
あさましう、こはいかなることぞと思ひまどはるれど、聞こえむかたなし。
なみなみの人ならばこそ、あららかに引きかなぐらめ、それだに人のあまた知らむは、いかがあらむ。
心も騒ぎて、したひ来たれど、動 (ドウ) もなくて、奥なる御座 (オマシ) に入りたまひぬ。
障子をひきたてて、 「暁に御迎へにものせよ」 とのたまへば、女は、この人の思ふらむことさへ、死ぬばかりわりなきに、流るるまで汗になりて、いとなやましげなる、いとほしけれど、例のいづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ、あはれ知らるばかり、なさけなさけしくのたまひつくすべかめれど、なほいとあさましきに、
「うつつともおぼえずこそ、数ならぬ身ながらも、おぼしくたしける御心ばへのほども、いかが浅く思うたまへざらむ。いとかようなる際 (キハ) は、際 (キハ) とこそはべなれ」
とて、かくおしたちたまへるを、深く、なさけなくうしと思ひ入りたるさまも、げにいとほしく、心はづかしきけはひなれば、
「その際々 (キハギハ) を、まだ知らぬ初事 (ウヒゴト) ぞや。なかなかおしなべたるつらに思ひなしたまへるなむ、うたてありける。おのづから聞きたまふやうもあらむ、あながちなる好き心はさらにならはぬを、さるべきにや、げにかくあはめられたてまつるもことわりなる心まどひを、みづからもあやしきまでなむ」
など、まめだちて、よろづのたまへど、いとたぐひなき御ありさまの、いよいようちとけきこえむことわびしければ、すぐよかに心づきなしとは見えたてまつるとも、さるかたのいふかひなきにて過ぎぐしてむと思ひて、つれなくのみもてなしたり。
人がらのたをやぎるに、強きこころをしひて加へたれば、なよ竹のここちして、さすがに折るべくもあらず。
まことに心やましくて、あながちなる御心ばへを、いふかたなしと思ひて、泣くさまなど、いとあはれなり。 心苦しくはあれど、見ざらましかばくちをしからまし、とおぼす。
なぐさめがたく憂し、と思へれば、
「など、かくうとましきものにしもおぼすべき。おぼえなきさまなるしもこそ、契りあるとは思ひたまはめ。むげに世を思ひ知らぬやうに、おぼほれたまふなむ、いとつらき」
と恨みられて、
「いとかく憂き身のほどのさだまらぬ、ありしながらの身にて、かかる御心ばへを見ましかば、あるまじき我頼みにて、見なほしたまふ後瀬 (ノチセ) をも思うたまへ慰めましを、いとかう仮なる浮寝 (ウキネ) のほどを思ひはべるに、たぐひなく思うたまへまどはるるなり。よし、今は見きとなかけそ」
とて、思へるさま、げにいとことわりなり。おろかならず契り慰めたまふこと多かるべし。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

皆、寝静まった気配なので、源氏の君が襖の掛金をためしに引き上げてごらんになると、向こう側からは錠がかけてありませんでした。そっと入っていくと、几帳を襖口に立ててあって、ほの暗い燈火に目をお凝らしになりますと、唐櫃のような物をいくつか置いてあって、乱雑に散らかっています。
その中を分け入って女の気配のするあたりへ忍んでいらっしゃると、たいそう小柄な感じの女がただ一人、寝ております。源氏の君はなんとなく気が咎めながらも、女のかぶっている着物をそっと押しのけられました。
女はその時まで、呼んでいた女房の中将の君が、戻ってきたとばかり勘違いしています。
「中将をお呼びでしたから、近衛の中将のわたしが参りました。人知れずあなたをお慕いしていた思いが通じたかと思いまして」
と、源氏の君がおっしゃるのを、女はとっさになにが起こったのやらわけもわからず、物の怪にでも襲われたような気持ちがして、
「あ」
と怯えた声をたてましたが、顔に源氏の君のお召し物の袖が掛かっていて、声にならないのでした。
「あまり突然のことで、いい加減な浮気心のようにとられても仕方がないけれど、長年ずっとお慕いしつづけてきた私の気持ちも知ってほしくて、こういう機会を待っていたのですよ。こうなるのも、決して浅い縁ではないと思って下さい」
と、たいそう優しくおっしゃいます。それは鬼神でさえも荒々しい振る舞いなどは、とても出来ないだろうと思われるほど優雅な御様子なのです。
「ここに、怪しい人が」
などと、はしたなく声をあげて、騒ぎ立てることも出来ません。それでも女はただもう情けなくてたまらず、ずいぶんひどい御無体なお仕打ちだと思うと、あまりのことに呆れ果てて、
「お人違いでございましょう」
という言葉も、声にならないほどかすかでした。今にも消え入りそうにおののいている女の様子が、言いようもなく哀れで可憐なので、源氏の君はいっそういとしさがつのり、
「人違いなどするものですか。私の真実な恋心に導かれてきましたのに、はぐらかしてわざと分からないふりをなさるとはあんまりのなさり様ですよ。決して軽薄な失礼な行為はいたしません。私の胸の思いを少しだけでも聞いていただきたいだけなのです」
とおっしゃりながら、たいそう女が小柄なので、抱きかかえて、襖口をお出になるところへ、さっき呼んでいた中将の君らしい女房が来合わせました。源氏の君が思わず、
「や」
と、お声を出されたので、その女房は怪しんで手探りで寄って来ましたら、源氏の君のお召し物に焚き染めたかぐわしい薫が、あたり一面に匂いみちて、中将の君の顔にまでただよいかかってくるように思われます。
中将の君はさてはと察しがつきましたが、驚きのあまり呆れはてて、これは一体どうしたことかと気も転倒するばかりで、声のかけようもありません。
相手が普通の身分の男なら、荒々しく引き離すことも出来ましょう。が、そうして、騒ぎをききつけられ、大勢の人にこのことが知られたら、困ったことになるだろうと、中将の君は心も上の空になり、ただお二人の後から追いすがって行くばかりです。
源氏の君は気にもおかけにならず、平然と奥の御寝所にお入りになってしまわれました。
襖を閉め切ってから、
「明け方お迎えに来なさい」
とおっしゃるので、女は、中将の君がこの有り様をどう思うだろうと、死ぬほどつらく、しとどに流れる冷汗にまみれて、見るからに気分がたまらなく悪そうです。
その様子をご覧になってまた、たいそう不憫だとお思いになりますと、例によって一体どこから取り出されるお言葉なのか、しみじみ女の胸にしみいるように、この上もなく情愛をこめてこまやかにお口説きになるのでした。
それでも女はやはりあまりのあさましさに、ただもう恥ずかしく辛くて、
「こんなことは現実 (ウツツ) のこととも思われません。どうせわたしなど、数ならぬ卑しい身ではございましても、これほど見下げつくしたお扱いを受けましては、どうして深いお心などと思えましょう。わたしのようなしがない身の者にも、それなりの身分に応じた生き方がございます」
と、言って、源氏の君がこういう無理無体なお振舞いをなさったのを、心の底から情けなく、つらく思い余っているようなので、源氏の君は、心から可愛そうにも、恥ずかしくもお思いになられるのでした。
「わたしはあなたのいう女の身分がどうのこうのということさえ、まだよく知らぬほど初心 (ウブ) で、こんなことははじめての経験なのですよ。それをまるでありふれた浮気者扱いなさるのは、あんまりだと思います。今まであなたも自然に噂にお聞きになっているでしょう。わたしはこれまで、ついぞ一度も無茶な浮気沙汰などおこしたことはないのです。それなのにどうして前世の因縁なのか、ほんとうにあなたとは、こんなことになってしまってどう非難され嫌われても仕方のないほど、狂おしく迷い込んでしまった。自分でも不思議でならない」
など、真剣に、さまざまに言い訳なさるのですが、女は、源氏の君の世にたぐいないお美しいお姿を拝するにつけ、身も心も許してお心にそうことがますますみじめに思われてたまらないので、可愛げのない女だとお思いになろうとも、そうした色恋の道にはさっぱり通じない、野暮な女のふりをしようと決心し、ひたすらすげない態度で押し通したのでした。
もともとやさしい人柄なのに、無理に強気らしく構えていますので、なよ竹がしなやいでいながら、なかなか折れないように、源氏の君には思い外にたやすくは手折れそうもないのでした。
女は心の底からせつなく、情けなくて、源氏の君のあまりにもひどい無理無体ななさり方を、恨んでむせび泣いている様子など、たいそう哀れに見えます。不憫ではあるけれど、もし、思いを遂げずに終わっていたら、悔いを残しただろうとお思いになるのでした。女が慰めようもないほどいつまでもふさぎこんで悲しがっておりますので、
「どうしてそんなに、わたしを憎んでお嫌いになるのですか。ゆくりなくもこういうことになったのを、かえって前世からの深い因縁があったからなのだとは思えませんか。まるで男も知らない無垢な娘のように、空とぼけていらっしゃるのは、あんまりです。わたしもほんとうにつらい」
と、お恨みになりますと、女は、
「まだこんなふうに受領の妻という身の上に定まっていない、昔の娘のままの身で、こうした熱いお心をお受けしましたのなら、たとえ身の程知らずのうぬぼれでも、はじめはともかくいつか先々では、心から愛していただける日もあろうかと、心の慰めともいたしましょうけれど、こんなかりそめの浮き寝めいた一夜のはかない情事だと思いますと、これ以上の悲しみはありません。ああ、今さらどうしようもないのです。こうなった上は、せめて、わたしのことを決して人にはお洩らしにならないで下さい。お情けでございます」
と言って、思い悩んでいる様子も、ほんとに無理もないことでございます。
源氏の君はさぞかし心をこめてあれこれ慰め、なみなみならず行く末のお約束も、固くおとりかわしになられたことでしょう。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ