〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/04/10 (木) 帚 木 (二十五)

君はとても寝られたまはず、いたづら臥しとおぼさるるに、御目さめて、この北の障子のあなたに人のへはひするを、こなたや、かくいふ人の隠れたるかたならむ、あはれや、と御心とどめて、やおら起きて立ち聞きたまへば、ありつる子の声にて、
「ものけたまはる。しづくにおはしますぞ」
と、かれたる声のをかしきにて言へば、
「ここぞ臥したる。客人 (マラウド) は寝たまひぬるか。いかに近からむと思ひつるを、されどけどほかりけり」
と言ふ。
寝たりける声のしどけなき、いとよく似かよひたれば、いもうとと聞きたまひつ。
「廂 (ヒサシ) にぞ大殿籠りぬる。音に聞きつる御ありさまを見たてまつりつる、げにこそめでたかりけれ」
とみそかに言ふ。
「昼ならましかば、のぞきて見たてまつりてまし」
と、ねぶたげに言ひて、顔ひき入れつる声す。
ねたう、心とどめても問ひ聞けかし、とあぢきなくおぼす。
「まろは端に寝はべらむ。あなくるし」 とて、火かかげなどすべし。
女君は、ただこの障子口すぢかひたるほどにぞ臥したるべき。
「中将の君はいづくにぞ。人気 (ヒトゲ) 遠きここちして、もの恐ろし」
と言ふなれば、長押 (ナゲシ) の下 (シモ) に、人々臥して答 (イラ) へすなり。
「下に湯におりて、 『ただ今参らむ』 とはべる」
と言ふ。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

源氏の君は、落ち着いてお寝みにもなれず、つまらないひとり寝かとお思いになると、お目が冴えて、この部屋の北側の向こう側に人の気配がするのは、もしや離れではなくあそこに、さっきの噂の人が隠れているのではないか。それにしても可哀そうな女よと、好奇心がそそられて、そっと起き出し、立ち聞きをなさいます。
さっきに少年が、
「もしもし、お姉さまはどこにいらっしゃるの」
とかすれた声で、可愛らしくいっています。
「ここに寝ていますよ。お客様はもうお寝みになられたかしら。どんなに御座所に近いかと思っていたけれど、割合離れているようね」
と答えています。もう寝ていた声のはきはきしないのが、少年の声とよく似ているので、姉だなとお聞きになります。
「廂の間にお寝みになっていらっしゃいます。噂に高い源氏の君のお姿を拝見したけれど、ほんとにおきれいですばらしかった」
と、ひそひそ声で言っています。
「昼間だったら、わたしもこっそり覗いて拝見するのだけれど」
と眠たそうに言って、夜具に顔を引き入れたような気配がします。
じれったい、もっと熱心に自分の話を聞けばいいのにと、源氏の君はもの足りなくお思いになります。
弟は、 「わたしは廂の間で寝よう。ああ、暗い」
と言って、燈火を描き立てなどしているのでしょう。女君は、この奥のすぐ斜め向こうのあたりに寝ている様子です。
「中将に君はどこにいるのかしら、側に人気のないような気がして、何だか怖いわ」
と言いますと、長押の下の廂の間に寝ている女房たちが、
「中将の君は離れにお湯を使いにまいりましたが、 『すぐもどってまいります』 と言っておりました」
と返事をしています。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ