主人 (アルジ) の子ども、をかしげにてありけり。
童なる、殿上のほどに御覧じ馴れたるもあり。伊予の介の子もあり。
あまたあるなかに、いとけはひあてはかにして十二三ばかりなるもあり。いづれかいづれ、など問ひたまふに、
これは、故衛門 (コエモン) の督
(カミ) の末の子にて、いとかなしくしはべるを、をさなきほどに後れはべりて、姉なる人のよすがに、かくはべるなり。
才 (ザエ) などもつきはべりぬべく、けしうはべらぬを、殿上なども思うたまへかけながら、すがしうはえまじらひはねらざめる」
と申す。
「あはれのことや。この姉君や、まうとの後の親」
「さなむはべる」 と申すに、
「似げなき親をも、まうけたりけるかな。上にもきこしめしおきて、 『宮仕へにいだし立てむと漏らし奏せし、いかになりにけむ』
と、いつぞやのたまはせし。世こそ定めなきものなれ」
と、いとおよすけのたまふ。
「不意にかくてものしはべるなり。世の中といふもの、さのみこそ今も昔も定まりたることはべらね。中についても女の宿世は浮びたるなむ、あはれにはべる」
など聞こえさす。
「伊予の介は、かしづくや。君と思ふらむな」
「いかがは。私の主とこそは思ひてはべるめるを。すきずきしきことと、なにかしよりはじめて、うけひきはべらずなむ」
と申す。
「さりとも、まうとたちのつきづきしく今めきたらむに、おろしたてむやは。かの介は、いとよしありてけしきばめるをや」
など、物語したまひて、 「いづかたにぞ」 「皆下屋におろしはべりぬるを、えやまかりおりあへざらむ」
と聞こゆ。
酔ひすすみて、皆人々簀に臥しつつ、しづまりぬ。
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