〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/04/09 (水) 帚 木 (二十三)

「にはかに」 とわぶれど、人も聞き入れず。寝殿 (シンデン) の東面 (ヒガシオモテ) 払ひあけあせて、かりそめの御しつらひしたり。
水の心ばへなど、さるかたにをかしくしなしたり。田舎家 (イナカイエ) だつ柴垣 (シバガキ) して、前栽 (ゼンサイ) など心とめて植ゑたり。風涼しくて、そこはかとなき虫の声々聞こえ、螢しげく飛びまがひて、をかしきほどなり。
人々、渡殿より出でたる泉にのぞきゐて、酒飲む。主人もさかな求むと、こゆるぎの急ぎありくほど、君はのどやかにながめたまひて、かの中の品に取り出でて言ひし、このなみならむかしとおぼしいづ。
思ひあがれるけしきに聞きおきたまへるむすめなれば、ゆかしくて、耳とどめたまへるに、この西面にぞ人のけはひする。
(キヌ) のおとなひはらはらとして、若き声どもにくからず。さすがに忍びて、笑ひなどするかはひ、ことさらびたり。
格子をあげたりけれど、守、心なしと、むつかりて、おろしつれば、火ともしたる透影 (スキカゲ) 、障子の上より漏りたるに、やをら寄りたまひて、見ゆやとおぼせど隙 (ヒマ) もなければ、しばし聞きたまふに、この近き母屋 (モヤ) につどひゐたるなるべし、うちささめき言ふことどもを聞きたまへば、わが御うへなるべし。
「いといとうまめだちて、まだきに、やむごとなきよすが、さだまりたまへるこそ、さうざうしかめれ。されど、さるべき隅には、よくこそ隠れありきたまふなれ」
などと言ふにも、おぼすことのみ心にかかりたまへば、まづ胸つぶれて、かやうのついでにも、人の言ひ漏らさむを聞きつけたらむとき、などおぼへたまふ。 ことなることなければ、聞きさしたまひつ。
式部卿の宮の姫に、朝顔奉りたまひし歌などを、すこしほほゆがめて語るも聞こゆ。
くつろぎがましく、歌誦 (ズ) じがちにもあるかな、なほ見劣りはしなむかし、とおぼす。
守出で来て、灯籠かけそへ、火明くかかげなどして、御くだものばかり参れり。
「とばり帳もいかにぞは。さるかたの心もなくては、めざましき饗 (アルジ) ならむ」 とのたまへば、
「何よけむとも、えうけたまはらず」 と、かしこまりてさぶらふ。端つかたの御座 (オマシ) に、仮なるやうににて大殿籠れば、人々もしづまりぬ。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

「あんまり急のお成りのことで」
と、紀伊の守はこぼしますが、誰も気にしません。とりあえず寝殿の東側をきれいに空けさせて、仮の御座所を設けてありました。
遣水のつくりなど、それなりになかなか趣向をこらしています。田舎家めいた柴垣などめぐらし、前庭の花や草木も気を配って植えてあります。夜風が涼しく吹き、そこはかとなく虫の音が聞こえ、蛍がしきりに飛び乱れて、味わい深い雰囲気でした。
渡り廊下の下から湧き出た泉を見下ろしながら、人々は酒を酌み交わしました。主人の紀伊の守は酒の肴の支度に、せかせかと体を弾ませながら、あわてふためいて走り回っています。その間、源氏の君は庭のあたりをゆったりとご覧になりながら、
「あの左馬の頭が中流としてしきりに話していたのは、たぶんこれくらいの階級のことだろう」
と、お思い出しになります。
伊予の介の後妻は、娘時代、気位の高い女だと評判だったのをお耳にしておられましたので、興味をそそられて聞き耳を立てていらっしゃいます。
どうやらこの寝殿の西の方の間に、人の気配がするようです。衣ずれの音がさらさらとして、若い女の声などが快く耳につきます。さすがに源氏の君に遠慮して、ひそやかに忍び笑いをする様子が、ことさらとりつくろったようにうかがえます。
格子戸を上げてあったのを、伊予の守が、
「不用意な」
と叱って下ろさせてしまったので、わずかに漏れる灯の火影が襖障子の上からほのかに射すあたりに、そっと忍び寄られて、女たちが見えるかとお思いになりましたけれども、どこにも隙間がありません。
ただ奥の向こうの女たちの声だけをしばらくお聞きになりました。女たちはここからすぐ近くの母屋に、集まっているのでしょう。ひそひそ話に耳をすませば、どうやら自分のことらしいのです。
「いかにも真面目ぶられて、まだお若いのに、早々といいご身分の姫君と御結婚なさってるなんて、ほんとにお淋しいことでしょうね」
「でも人目につかない適当な所には、結構、しげしげお忍びでお通いになっていらっしゃるそうよ」
などと、言うのをお聞きになると、胸深く秘めていらっしゃりことばかりが気にかかっているので、まずどきりとなさいます。
こんな折にでも、女房たちがあのお方との秘めごとを口にすばらせるのを聞きつけたら、どうしようかとはらはらなさいます。その後、話は格別のこともなかったので、途中で盗み聞きをおやめになりました。
いつしか式部卿の宮の姫君に、朝顔の花をお贈りになった時の、源氏の君のお手紙のお歌などを、少し言葉を間違えて話し合っているのも聞こえました。さも気楽そうにうちくつろいで、うろ覚えの人の歌などを軽々しく言いちらしているのを見ると、どうせこんんあ女房たちの女主人なら、逢えばがっかりするのが落ちだろうとお思いになります。
紀伊の守が出てきて、軒先の灯籠を懸け加えたり、燈火を明るくかいたてたりしておいて、お菓子だけをまずさしあげなした。
源氏に君が、
「ところで、 『とばり帳』 の支度はどうなっているのかな、そちらの方の用意もなければ、手落ちな接待だろう」
と冗談めかしておっしゃいます。 「とばり帳」 とは催馬楽に
<我家 (ワイヘン) は 帷帳 (トバリチョウ) も 垂れたるを 大君来ませ 婿にせむ 御肴 (ミサカナ) に 何よけむ 鮑 (アハビ) 栄螺 (サダヲ) か 石陰子 (カセ) よけむ 鮑 栄螺か 石陰子よけむ>
と謡われているのをひいて、寝室に女の用意は出来ているのかと問われたのです。
紀伊の守は、やはり同じ歌から、
「さて、何貝かお肴にお好みかとお尋ねも出来ないような、何ともはや、不調法者でございまして」
と、恐縮して坐っています。
端近な御座所でうたた寝のようにお寝みになられましたので、お供の人々も静かになりました。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ