〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/04/09 (水) 帚 木 (二十二)

からうして、今日は日のけしきもなほれり。
かくのみこもりさぶらひたるも、大殿御心いとほしければ、まかでたまへり。
おほかやのけしき、人のけはひもけざやかにけ高く、乱れたるところまじらず、なほこれこそは、かの、人々の捨てがたく取り出でしまめ人には頼まれぬべけれ、とおぼしものから、あまりうるはしき御ありさまの、とけがたくはづかしげに思ひしずまりたまへるを、さうざうしくて、中納言の君、中務 (ナカヂカサ) などやうの、おしなべたらぬ若人 (ワカウド) どもに、たはぶれごとなどのたまひつつ、暑さに乱れたまへる御ありさまを、見るかひありと思ひきこえたり。
大臣 (オトド) も渡りたまひて、うちとけたまへれば、御几帳 (ミキチョウ) 隔てておはしまして、御物語聞こえたまふを、 「暑きに」 と、にがみたまへば、人々笑ふ。 「あなかま」 とて、脇息 (キョウソク) に寄りおはす。いとやすらかなる御ふるまひなりや。
暗くなるほどに、 「今宵、中神 (ナカガミ) 、内裏よりはふたがりてはべりけり」 と聞こゆ。
「さかし、例は忌みたまふかたなりけり」
「二条の院も同じ筋にて、いづくにか違へむ、いとなやましきに」
とて大殿籠 (オオトノゴモ) れり。 「いとあしきことなり」 と、これかれ聞こゆ。
「紀伊の守にて親しくつこうまつる人の、中川のわたりなる家なむ、このころ水せき入れて、涼しきかげにはべる」 と聞こゆ。
「いとよかなり。なやましきに、牛ながら、ひき入れつべからむ所を」 とのたまふ。
忍び忍びの御方違 (カタガタ) へ所は、あまたありぬべけれど、久しくほど経て渡りたまへるに、方塞 (フタ) げて、ひき違 (タガ) へほかざまへとおぼさむは、いとほしきなるべし。紀伊の守に仰せ言賜へば、うけたまはりながら、しりぞきて、
「伊予の守の朝臣 (アソン) の家につつしむことはべりて、女房なむまかり移れるころにて、狭き所にはべれば、なめげなることやはべらむ」
と、下に嘆くを聞きたまひて、
「その人近かからむなむ、うれしかるべき。女遠き旅寝は、もの恐ろしきここちすべきを、ただその几帳のうしろに」
と、のたまへば、
「げによろしき御座所 (オマシドコロ) にも」 とて、人走らせやる。
いと忍びて、ことさらにことことしからぬ所をと、急ぎ出でたまへば、大臣にも聞こえたまはず、御供にもむつましき限りしておはしましぬ。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

ようやく、今日は雨もやみ、天気も持ち直しました。こう宮中にばかり閉じこもっていては、左大臣がさぞ心配していられるだろうとお気の毒なので、源氏の君は今日は左大臣邸へご退出になりました。
そちらではお邸の有り様も、女君のお人柄も、すっきりと上品で、すべてがきちんと整って乱れたところなどありません。
やはりこの方こそは、昨夜、左馬の頭たちが女の品定めをした中で、捨てがたい女の例として選び出した、誠実で信頼のおける人に当るだろう、とお思いになります。
それでも、女官のあまりにも端然とした御様子が、うち解けにくく、気がひけるくらい取りすましていらっしゃるのが、もの足りないのでした。
自然、中納言の君や中務などといった、とりわけ美しい若い女房たちを相手に、色っぽい冗談などおっしゃったりなさるのです
暑さのため、お召物もしどげなく着くずしていらっしゃるお姿を、女房たちは、何とまあお美しいと、惚れ惚れ見とれているのでした。
左大臣もこちらへいらっしゃって、源氏の君がすっかりくつろいでいらっしゃるのを御覧になり、御几帳を隔ててお坐りになりお話なさいます。源氏の君は、
「この暑いのに、やれやれ」
と、迷惑そうなお顔をなさるので、女房たちはくすくす笑います。
「しいっ、静かに」
と女房たちを制しながら、御自身は脇息にゆったりとよりかかって、いかにもお気楽そうな御様子です。
暗くなる頃に、女房が、
「今夜は、こちらは内裏から見ると陰陽道の中神がおられる悪い方向に当っております。お泊りになるのには方角が悪うございました」
とお報せに来ました。
「たしかにそうでしたわ。いつもならお避けになる方角でしたわ」
と女房が言います。源氏の君は、
「それじゃ二条の院だって同じ方角に当っているからだめだし、さて、どこへ方違 (カタチガエ) したものか、疲れて気分も悪いのに」
とおっしゃって、そのままお寝みになってしまわれます。
「方違なさらないなんて、とんでもございませんわ」
と、女房たちが口々に申し上げます。
「親しくお出入りしているあの紀伊の守が、中川のあたりの家に、この頃庭へ川水などを堰き入れて、涼しそうにしております」
と誰かが申し上げますと、
「それはいい話だね。気分がすぐれないから、牛車ごと引き入れられる気楽なところがいい」
とおっしゃいます。
こっそりお忍びでお通いになられる女のところに、方違えにふさわしい場所はいくらでもおありでしょうけれど、久々に左大臣邸へお越しになられたのに、ことさら方角の悪い日を選ばれて、それを口実に、すぐまたほかの女の所へいらっしゃるのだろうなど、左大臣がお取りになってはと、気がねをなさっていらっしゃるのでしょう。
紀伊の守にその件を伝えますと、畏まってお受けはしたものの、お前を下がってから、
「実は、父の伊予の介の家に物忌みがありまして、折あしくあちらの女たちが私方にまいっております。狭い家なので失礼なことがなければよろしいのですが」
と、女房たちに心配して話しているのを、源氏の君もお聞きになって、
「その、女が多いというのが嬉しいじゃないか。女気のない旅寝は淋しくてやりきれないだろう。その女たちの几帳の後ろにでも寝かせてもらおう」
とおっしゃいます。女房たちも、
「まあ、丁度適当なお泊まり場所かもしれませんわ」
といい、使いの者を走らせました。
たいそうなお忍びで、それほど大げさでないところへと、急いでお出かけになりましたので、そのことを左大臣にもお知らせしないまま、お供にもごく気の置けない者だけを連れていかれました。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ