〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/04/08 (火) 帚 木 (二十一)

「すべて男も女も、わづかに知れるかたのことを、残りなく見せ尽くさむと思へるこそ、いとほしけれ。
三史五経 (サンシゴキョウ) 、道々しきかたを、あきらかにさとりあかさむこそ、愛敬 (アイギョウ) なからめ、などかは、女といはむからに、世にあることの公私につけて、むげに知らずいたらずしもあらむ。
わざと習ひまねばねど、すこしもかどあらむ人の、耳にも目にもとまること、自然に多かるべし。
さるままには、真名 (マンナ) をはしり書きて、さるまじきどちの女文 (ヲンナブミ) に、なかば過ぎて書きすすめたる、あなうたて、この人のたをらかならましかばと見えたり。
ここちにはさしも思はざらめど、おのずからこはごはしき声に読みなされなどしつつ、ことさらびたり。 上揩フなかにも、多かることぞかし。
歌詠むと思へる人の、やがて歌にまつはれ、をかしき古きことをも、はじめよりとりこみつつ、すさまじきをりをり、詠みかけたるこそ、ものしきことなれ。
返しせねばなさけなし、えせざらむ人は、はしたなからむ。
さるべき節会 (セチエ) など、五月の節 (セチ) に急ぎ参る朝、何のあやめも思ひしづめられぬに、
えならぬ根をひきかけ、九日の宴に、まづ難き詩の心を思ひめぐらして、 暇なきをりに、菊の露をかこちよせなどやうの、つきないいとなみにあはせ、さならでも、おのづから、げに後に思へばをかしくもあはれにもあべかりけることの、そのをりにつきなく、目にとまらぬなどを、おしはからず詠み出でたる、なかなか心後れて見ゆ。
よろづのことに、などかは、さても、とおぼゆるをりから、時々、思ひかなわぬばかりの心にては、よしばみ情立たざらむなむ目やすかるべき。
すべて、心に知られむことをも、知らず顔にもてなし、言はまほしからむことをも、一つ二つのふしは、過ぐすべくなむあべりかりける」
と言ふにも、君は人ひとりの御ありさまを、心のうちに思ひつづけたまふ。
これに、足らずまたさし過ぎたることなくものしたまひけるかなと、ありがたきにも、いとど胸ふたがる。
いづかたにより果つともなく、果て果てあやしきことどもになりて、あかしたまひつ。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

佐馬の頭がまたその後を引きとり、
「すべて、男も女も、教養のない人間ほど、僅かな知識を残らずひけらかしたるもので、実に困ったものです。中国の三史、五経などという本格的な学問を、女だてらに最高まできわめようと勉強されたのでは、愛嬌がなさすぎます。もちろん女だからといって、どうして世間に通っている公私の事柄について、全く知らぬ存ぜぬですむ筈がありましょう。わざわざ勉強しないでも、少し才覚のある女なら、漢籍についても自然目にも耳にもすることが多いでしょう。
そのあげく、漢字を達者に走り書きし、仮名で書くのが常識の女どうしの手紙に、半分以上も堅苦しい漢字を書き込んであったりするのは、何とも見苦しいことです。どうして、もっと女らしくしないのかなあと、残念に思われます。当人はそんなつもりもないのでしょうが、漢字が多いと読む声もついごつごつした響きに聞こえ、耳障りで、不自然に感じます。
こういうことは、案外御身分の高い方々のなかにもよくあることでして。歌を読むのが上手だと自慢の人が、いつのまにか歌に囚われてしまって、歌のことしか考えられなくなり、しゃれた古歌などを初句から取り入れて、こちらの気分にお構いなしに詠みかけてこられるのは、迷惑です。
返歌をしなければ気が利かないと思われるだろうし、また、返歌の出来ない人は恥じをかかされることになります。
これといった節会のおり、たとえば五月五日の端午の節句に、参内しようとあわてている朝、菖蒲のことなどおよそ考える気にもなれないところへ、菖蒲のみごとな根にちなんだ凝った歌を詠んで寄こしたり、また九月九日の重陽の菊の宴に出かける直前、難しい漢詩に凝って考えあぐねていて、外のことなど何も考えられない折も折りに、菊の露にかこつけて恨みがましい歌などをあてつけに寄越したりして、苛々させられ癪に障ります。何もそんな忙しい時にかぎって、そういう真似をしないでもいいのに。後で閑な時にゆっくりと見れば案外おもしろく、心にしみるような歌なのに、ただ時と場合を考えないばかりに、相手にされないのです。
男の立ち場を思いやる想像力もなく、自分本位の押しつけがましさは、かえって浅はかな女に思われます。
何につけても、どうして、そんなことをと、時と場合の分別もわきまえられない頭では、なまじ気取ってみたり、風流ぶったりしない方が無難というものです。
何につけても、よく知っていることでも知らないふりをよそおい、言いたいことも十のうち一つ二つは言わずにおく方がいいのです」
と言うのをお聞きになりながらも、源氏の君はただ一人の恋しいあるお方のことを、心の中に思いつづけていらっしゃいます。
あの藤壺の宮こそ、今の話のように、すべてにおいて過不足の全くない希有なお方だと思われます。そう思うといっそう恋しさで胸の中が塞がれて苦しい思いをなさるのでした。
話はそれからそれへと続いて、お終いには結論も出ないまま、埒もない話になってしまいますた。いつの間にか外は白々と夜が明けていたのでした。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ