〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/04/04 (金) 帚 木 (十七)

中将、「なにがしは、痴者 (シレモノ) の物語をせむ」 とて、
「いと忍びて見そめたりし人の、さても見つべかりしかはひなりしかば、ながらふべきものとしも思うたまへざりしかど、馴れゆくままに、あはれとおぼえしかば、たえだえ忘れぬものに思うたまへしを、さばかりになれば、うち頼めけるけしきも見えき。
頼むにつけては、うらめしと思ふこともあらむと、心ながらおぼゆるをりをりもはべりしを、見知らぬやうにて、久しきとだえをも、かうたまさかなる人とも思ひたらず、ただ朝夕にもてつけたらむありさまに見えて、心苦しかりしかば、頼めわたることなどもありきかし。
親もなく、いと心細げにて、さらばこの人こそはと、ことにふれて思へるさまもらうたげなりき。
かうのどけきにおだしくて、久しくまからざりしころ、この見たまふるわたりより、情けなくうたてあることをなむ、さるたよりありて、かすめ言はせたりける、後にこそ聞きはべりしか。
さる憂きことやあらむとも知らず、心には忘れずながら、消息 (セウソコ) などもせで久しくはべりしに、むげに思ひしをれて、心細かりければ、をさなき者などもありしに、思ひわづらひて、撫子の花を折りておこせたりし」 とて涙ぐみたり。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

「わたしは、ひとつ馬鹿な男の話をしましょう」
と言って今度は頭の中将が、話しだしました。
「ごく内密に通っていた女が、長つづきしてもいいほど気に入りました。馴染みが深くなるにつれて、女に可愛さもまして、ますます惹かれていったので、とぎれがちだけれど通いつづけていました。
そうなると、女の方でも、私を頼りにする様子が見えてきました。それでも浮気はやめられないので、女は恨めしく思うこともあるだろうと、我ながら思いやる折々もあったのですが、気にしないふりを装って、女は長い間私の通う日が途絶えても、怪しむわけでもなく、ただもう朝に夕に、心から私に仕えようとつとめているのがよくわかって、不憫だったので、行く末長く私を頼りにするようになど、慰めたりしていました。
女は親もなく、心細い境遇なので、何かにつけてわたしを頼りにしている様子が見えました。
それがとてのいじらしかったのです。
ところが、女のおっとりと優しいのをいいことにして、久しく訪ねてやらないでいたら、私の妻の方から、思いやりのないひどい脅迫がましいことを、人を介していってやったらしいのです。
すべては後で聞いたことでした。こちらはそんな目に遭っていようとは露知らず、心ではいつも忘れずにいながら手紙も出してやらず、長い間放っておいたものです。
女はすっかり気落ちして、心細くなったのでしょう。私たちの間に幼い子供もあったことから思案にくれて、撫子の花を添えた手紙を寄こしました」
といいながら、頭の中将は涙ぐんでいます。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ