〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/03/17 (月) 帚 木 (十三)

『よろづにみだてなく、ものげなきほどを見過ぐして、人数 (ヒトカズ) なる世もやと待つかたは、いとのどかに思ひなされて、心やましくあらず。
つらき心を忍びて、思ひなほらむをりを見つけむと、年月重ねむあいな頼みは、いと苦しくなむあるべければ、かたみにそむきぬべききざみになむある』
と、ねたげに言ふに、腹立たしくなりて、にくげなることどもを言ひはげましはべるに、女もえおさめぬ筋にて、指 (オヨビ) ひとつを引き寄せてくひてはべりしを、おどろおどろしくかこちて、
『かかる疵さへつきぬれば、いよいよまじらひをすべきにもあらず。はずかしめたなふめる官位 (ユカサクライ) 、いとどしく、何につけてかは人めかむ、世をそむきぬべき身なめり』
など、言ひおどして、 『さらば今日こそは限りなめれ』 と、この指をかがめてまかでぬ。
『手を折りて あひ見しことを 数ふれば これひとつやは 君が憂きふし
えうらみじ』 など言ひはべれば、さすがにうち泣きて、
『憂きふしを 心ひとつに へきて こや君が手を わかるべきおり』
など、言ひしろひはべりしかど、まことには変わるべきこととも思うたまへずながら、日ごろ経 (フ) るまで消息もつかはさず、あくがれまかりありくに、 臨時の祭の調楽 (デウガク) に、夜ふけて、いみじう霙 (ミゾレ) 降る夜、これかれまかりあかるる所にて、思ひめぐらせば、なほ家路と思はむかたは、またなかりけり。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

『あなたが万事につけ見栄えがせず貧相でまだ官位が低い間を、ずっと辛抱し通して、いつかは出世なさるのを待つというなら、いつまで気長に待っても苦になりません。それより、あなたの冷たい心を辛抱して、浮気の止む日がいつかはあるだろうかと、これから長い年月を重ねて、あてにならない空頼みを抱いていくなんて、とても辛抱出そうもありません。やっぱりいまがお互いに別れるいい潮時なのでしょう』
と、さも憎々しく言いますので、こちらも腹を立てまして、負けずに悪態をついてやりますと、女も我慢の出来ない性分で、いきなりわたしの指を一本引きよせ、がぶりと咬みつきました。こちらもそれを逆手にとって、大仰に喚き立てて、
『こんな疵までつけられては、いよいよ宮中に出仕も出来なくなってしまった。人並みでないとお前に馬鹿にされた官位もこれでお終いだ。これではどうして人並みの出世が出来よう。万事休すだ。もうこうなれば、出家するしか道はない』
など、嚇しつけて、
『今日という今日こそ、いよいよおさらばだ』
と、捨てぜりふを残し、咬まれた指を曲げたまま、出て来ました。

手を折りて あひ見しことを 数ふれば これひとつやは 君が憂きふし
(指を折り折り あなたとの愛の歳月数えてみれば嫉妬ばかりか何と欠点の多い人よ)
『捨てられても恨んだりは出来ないだろう』
と言いますと、さすがに女は涙をたたえて、
憂きふしを 心ひとつに へきて こや君が手を わかるべきおり
(あなたの浮気の数々を わが胸一つに数えきて ついに我慢の緒が切れて あなたの指に噛みついた 今こそ別れの時が来た)
など、言い争ってみましたが、実のところ、別れるつもりなどはなかったのです。
そのまま見せしめのつもりで便りもやらず、何日も浮かれ歩いておりました。
そのうち加茂の臨時の祭りの管弦の練習が宮中でありまして、同僚たちと一緒に遅く退出しました。ひどく霙の降る夜更けで、友達とも別れますと、こんな夜は、やはり帰って行くところは、あの女の家より他にはないとつくづく思ったのです。
新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ