〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/03/12 (水) 帚 木 (八)

「今はただ品にもよらじ、容貌をばさらにも言はじ、いとくちをしく、ねぢけがましきおぼえだになくは、ただひとへにものまめやかに、静かなる心のおもむきならむよるべをぞ、つひ頼み所には思ひおくべかりける。
あまりのゆゑよし心ばせ、うち添へたらむをば、よろこびぬ思ひ、すこし後れたるかたあらむをも、あながちに求め加へじ。
うしろやすくのどけき所だに強くは、うはべの情は、おのづからもてつけるべきわざをや。
艶にもの恥恨み言ふべいころをも、見知らぬさまに忍びて、うへはつれなくみさをつくり、心一つに思ひあまる時は、言はむかたなくすごき言の葉、あはれなる歌を詠みおき、しのばるべきかたみをとどめて、深き山里、世離れたる海づらなどにはひ隠れぬかし。
童にはべりし時、女房などの物語読みしを聞きて、いとあはれに悲しく、心深きことかなと涙をさへなむおとしはべりし。
今思ふには、いと軽々しく、ことさらびたることなり。
心ざし深からむ男をおきて、見る目の前につらきことありとも、人の心を知らぬやうに、逃げ隠れて人をまどはし、心を見むとするほどに、長き世のものもの思ひになる、いとあじきなきことなり。
心深しや、などとほめたてられて、あはれ進みぬれば、やがて尼になりぬかし、思ひ立つほどは、いと心澄めるやうにて、世にかへりみすべくも思へらず。
『いで、あな悲し。かくはたおぼしなりにけるよ』 などやうに、あひ知れる人来 (キ) とぶらひ、ひたすらに憂 (ウ) しとも思ひ離れぬ男、聞きつけて涙おとせば、使ふ人、古御達 (フルゴタチ) など、『君の御心はあはれなりけるものを、あたら御身を』 など言ふ。
みづから額髪をかきさぐりて、あへなく心細ければ、うちひそみぬかし。
忍ぶれど涙こぼれそめぬれば、をりをりごとにえ念じえず、悔しきこと多かめるに、仏もなかなか心ぎたなしと見たまひつべし。  

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

「こうなればもう、家柄とか、容貌などはとやかく問題にしますまい。どうしようもない出来事で、性質がひねくれた点さえなければ、ただ一筋に堅実で、静かな落ち着いた性格の女をやはり、最後の頼りとして考えておきましょう。
もしそれ以上のたしなみや気働きがあったとしたら、拾いものだと喜んで、少々の足りないめんがあっても、強いてそれ以上は需 (モト) めますまい。
信頼ができて、あまり焼きもち焼きでなく、こちらを気楽にさせてくれるような性質さえ見きわめたら、表面的な愛情などは、自然に後から身に備わってくるものですからね。
ところが、いやに気を惹くように恥ずかしがってみせ、夫に恨みごとをいいたい時も、そ知らぬふりをして辛抱し、表情は何気ないふうにしとやかに装い、そのくせ心にがまんの緒が切れると、言いようもないほど淋しそうな置き手紙や、胸にしみじみせまるような歌を詠んで、思い出の形見の品と共に残しておいて、自分は深い山奥や、淋しい海辺などにこっそりと身を隠してしまったりする者もおります。
子供の頃には、女房などが、そんな物語を読むのを聞いて、たいそう哀れで悲しくなり、思いつめた可愛そうな女心に感動して、同情の涙までこぼしたものでした。
しかし今思えば、そんな態度はいかにも軽率で、わざとらしいあてつけです。
たとえ、目のあたりに辛い目を見せられたところで、愛情の深い夫を残して、夫の心情も読み取れないかのように逃げ隠れて心配させ、夫の愛情を試してみようとするうち、とりかえしのつかぬことになり、一生悲しい思いをしなけらばならなくなります。ほんとうにつまらないことです。
『よくまあ、思いきられて』
など、まわりからおだてられて、ますます気が昂ぶってくると、そのままつい、尼になったりしてしまいます。出家の決心をする時は、何だか心が澄み清まったように思い、浮き世に何の未練もないように思います。ところが、
『まあ、おいたわしい。よくぞそこまで御決心なさいましたこと』
など、知人が見舞いに来たり、まだ女に愛情の残っている夫が、女の出家を聞きつけて、涙を落としたりすると、召使や古女房たちが、ご注進と駆けつけてきて、
『殿さまは、あんなにおやさしいお心で愛していらっしゃいましたのに、こんなお姿になってしまわれて、ほんとに惜しいことをなさいました』
などと離します。自分も剃髪して短くなった額髪を指でさぐってみると、手ざわりの頼りなさに、心細くなり、つい泣き顔になってしまいます。我慢していても一度涙がこぼれはじめると、何かにつけてこらえきれず、後悔することが多くなるでしょう。そうなれば仏もかえって、未練たらしく心の汚い者よとお思いになるでしょう。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ