第二十一回 関西クラウン吟詠家
ジ ョ イ ン ト リ サ イ タ ル
平成十九年八月二十六日 (日) 於:尼崎アルカイックホール 
主催:日本クラウウン関西吟友会
後援:日本クラウン株式会社




日露戦争の後日本は産業革命を進める一方、帝国主義の政策を押し進めていった。
労働者は低賃金にあえぎ、想像も出来ないほどに苦しい生活を余儀なくされたのでした。
この時代の詩人、石川啄木はどう生きたのであろうか。
啄木は稀有の天才でありました。 「一握の砂」 「悲しき玩具」 は大正以後の日本の歴史の中で灰色の青春を送った多くの人に愛唱されました。
挫折感と社会の不条理に挑戦した鮮烈な詩精神は傷つきやすい青年の魂に結びつくことで不朽の名声を獲得したのです。
や わ ら か に
(石川 啄木)
吟:山戸 緑晨・佐藤 楚風
やわらかに

  柳あおめる 北上の

岸辺目に見ゆ

  泣けとごとくに

やわらかに

  柳あおめる 北上の

岸辺目に見ゆ

  泣けとごとくに
た は む れ に
(乃木 希典)
吟:山田 琢城
たはむれに

  母を背負ひて そのあまり

軽きに泣きて

  三歩あゆまず

たはむれに

  母を背負ひて そのあまり

軽きに泣きて

  三歩あゆまず
しかし、明治も終らんとする四十五年四月、病床から 「今年は良い事が沢山あるように」 と願った甲斐もなく、啄木に幸せの風が吹くことは無く空しく散っていった。二十七歳の生涯であった。
啄木が亡くなったその年の七月、明治天皇のご逝去が発表された。
九月三十日、午後八時、霊輿出門の号砲がいたたましくも悲しく静かな帝都の夜空に響き渡った。

「静子、我らも陛下のもとに」

将軍は兼ねての決意通り、二十一発の弔砲を合図に夫婦共々自刃し天皇のお後に従った。
双 殉 行
(竹添 井井)
吟:田畑 水姫・中川 海聚・須之内 梅e・多田 星花・石井 尊優・沖野 摂瑤
戦雲城を圧して城壊れんと欲す
腹背敵を受けて我が軍負る
聯隊旗は臣が掌る所
賊の為に奪わる臣が罪大なり
旅順の巨砲 千雷轟く
骨砕け肉飛んで血雨腥し
二万の子弟吾が為に死す
吾何の面目あって父兄に見えん
青山の馳道朱闕に連り
万国の衣冠厳として列を成す
霊輿肅肅牛歩遲し
金輪徐ろに輾って声咽ぶが如し
弔砲一たび響きて臣が事終る
腹を刺し喉を絶って何ぞ従容たる
傍に蛾眉の端坐して伏する有り
白刃三たび刺して繊手紅なり
遺書固く封じて墨痕湿う
躬を責め世を誡め情尤も急なり
言言都て熱腸より迸る
鬼哭し神恫み天も亦泣く
嗚呼身を以って君に殉ず臣節堅し
生を舎てて夫に従う婦道全し
忠魂貞霊長えに散せず
千秋万古桃山に侍す
乃 木 将 軍 を 挽 す
(杉浦 重剛)
吟:小枝 銀風・西山 賞風
赤城の熱血余瀝を存し

松下の遺風不言に伝う

心事明明還白白

神州の正気君に頼って尊し
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