第二十一回 関西クラウン吟詠家
ジ ョ イ ン ト リ サ イ タ ル
平成十九年八月二十六日 (日) 於:尼崎アルカイックホール 
主催:日本クラウウン関西吟友会
後援:日本クラウン株式会社




一方陸軍は休職していた乃木希典が近衛師団に復職した。
そして長男勝典は第一師団に属し、次男保典は歩兵第一連隊留守隊に属していた。
乃木は出征に先立ち静子夫人に向かい。
「この戦いは国運をかけての戦争じゃ。必勝あるのみ、生還はあり得ない。また父子三人が戦争に赴くのじゃ。誰が先に死ぬのかはわからぬ。たとい誰が先に死んでも、棺桶三つ揃うまで葬儀をしてはならぬ、よいな」
そして一句を詠んで吾が子を激励した。
国 の た め
(乃木 希典)
吟:古和田 岳修
国のため

  散る一ひらは 惜しまねど

    あだにぞ散るな 大和桜は

国のため

  散る一ひらは 惜しまねど

    あだにぞ散るな 大和桜は
五月二十六日、日本軍は南山の険を撃ち破り、旅順の要塞を孤立させたが、将軍の長男勝典中尉はこの戦いに傷つき金州の野戦病院において息を引き取った。
乃木将軍は南山の新戦場を視察し、勝典の墓表を見た。
将軍一人、幕僚の群れを離れ、南山の山腹に馬上の孤影を投じた。
この時、勝典の同僚将校がツカツカと進み来て、勝典の最後を物語った。

「将軍、中尉は敵軍と勇敢に戦い、ここで負傷しました」
「うむ。そうか」

他に何も言うことはなかった。やがて戦士者の英霊を慰め、一詩を賦した。

 

金 州 城 下 の 作
(乃木 希典)
吟:大西 旭峰・宮原 緑昇
山川草木転た荒涼

十里風腥し新戦場

征馬前まず人語らず

金州城外斜陽に立つ
旅順の攻略は至難を極めた。敵陣二〇三高地、東鶏冠山は難攻不落を誇る堅塁であり、ロシア軍の抵抗は熾烈を極め、日本軍の損害は日と共に増すばかりであった。
大本営では旅順攻略の作戰指導の責から乃木将軍司令官更迭の意見が出たが、明治天皇は、
「乃木を代えてはならぬ。代えたならば乃木は生きてはおらぬであろう。また、代えたとしてもそのあとを誰に引き受けさせるのか」
刻々報告される不利な戦況の中、将軍の次男保典少尉の戦死が参謀部まで報告された。
白井参謀はこれを将軍に報告すべきかどうかしばし迷ったがやがて意を決し、司令官室の扉を叩いた。
「うむ、そうか」
と言っただけであった。将軍はフッと蝋燭の火を吹き消し後は真の闇、涙は後から後から止めどなく流れた。

十二月五日 『二〇三高地を奮取せよ』 と最後の総攻撃の命令が下る。
地を振い耳をつんざく重砲の轟き、榴撤弾の炸裂、各処にあがる突撃の喊声は天地を覆し、累々たる屍山を覆いながらもついに二〇三高地は陥落、旅順は我が手に帰したが、将軍お心は晴れなかった。
将軍は黙々とこの山容を仰ぎ、この二〇三高地を爾霊山と名づけ次の一詩を賦した。
爾 靈 山
(乃木 希典)
吟:高比良 水颯・青木 水萌
爾霊山は険なれども

   豈攀じ難からんや

男子功名

   克艱を期す

鉄血山を覆うって

   山形改まる

万人斉しく仰ぐ

   爾霊山
そして、明治三十八年一月一日、旅順開城条約締結調印、越えて五日、乃木将軍は敵将ステッセル将軍と水師営において会見した。
戦いを終え昨日の敵は今日の友、旅順攻城軍司令官の態度は終始一貫武将の典型であった。
一月十二日、乃木第三軍は北上をはじめ、三月十日奉天を占領、二年有半に亘る凄惨な戦いから蒙古に近い法庫門に駐屯した。
激戦のため人馬共に疲れきったが、なお意気軒昂であると、その心境を詠じた。

法 庫 門 営 中 の 作
(乃木 希典)
吟:木原 緑p・中川 緑洋
東西南北幾山河

春夏秋冬月又花

征戦歳余人馬老ゆ

壮心猶お是れ家を思わず
この決戦を以って日露戦争は講和を迎えた。
乃木第三軍は帝都に凱旋した。
将軍は凱歌渦巻く中に、凱旋将軍として華々しき歓呼の声に迎えられながら、馬上深く頭を垂れ心中深く恥じ泣いていた。
将軍は直ちに天皇に会見し、部下の功績を称え、かつ自分の策戦の失敗を報告した。

「陛下、これ、ひとえに微臣が不敏の罪、仰ぎ願わくは臣に死を賜え、割腹して罪を謝し奉りたい」

「乃木、今は死するときではない。もし死を願うなら、われ世を去りてのちにせよ」

多くの戦死者を出した責任を感じ、ひたすら父兄の前に頭をたれる乃木将軍。

凱 旋
(乃木 希典)
吟:松葉 水勲・矢田 星旺
王師百万驕虜を征す

野戦攻城屍山を作す

愧ず我

何の顔あって父老に看えん

凱歌今日幾人か還る
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