偶 作 将赴獄、留題村塾壁

ぐう  さく
李世威権帰将門

将門受侮屈夷蕃

九重勅発万邦震

今日始知天子尊

※安政五年 (1858) 三月の作。二十九歳。
偶作は、ふと、こんな詩が出来ました、といった意味合いの、習用の詩題。
当時、幕府が締結しようとしていた日米条約について、朝廷から不許可の勅許が下されたとの報に接しての詩。
その後、幕府では四月に入って井伊直弼が大老となり、さきの勅諚にもかかわらず日米交渉を進め、ついに六月には勅許を待たぬままに日米修好通商条約を調印した。
せい けん 将門しょうもん
将門しょうもん あなどりをけてばんくつ
九重きゅうちょう ちょく はつして 万邦震ばんぽうふる
今日こんにち はじめてる てんそん

李世=末の世。道義風俗の衰微した時代。ここでは朝廷に存在すべき政治の権力が武門に移ってしまっている顛倒の時代との認識から、末の世という。
将門=将軍の家柄。徳川将軍家。
受侮屈夷蕃=夷蕃は、外国人を軽蔑しての呼称。蕃は、蛮と同じで、区別して言えば東方の異民族を夷、南方を蕃という。
この句、松陰などの目には、日米条約の締結がアメリカに迫られての屈辱的な開国であると映っていたことを示す。
九重=天子の宮殿。朝廷もしくは天子をいうに用いる。九層からなる天界に擬えて天子の宮殿の門を九重にすることからできた語。
勅発=安政五年 (1858) 三月二十日、朝廷では幕府老仲堀田正睦を召して、日米条約を再議せよとの詔勅を下した。
万邦=天下すべての国々。

価値顛倒の末世では、政権は朝廷を離れれ将軍家に帰してしまった。しかるに、将軍家は外国から侮られているばかりか、夷狄の言うままに屈服しようとしている。
この時にあたり、朝廷から日米条約は再考せよとの詔勅が発せられて、世界中を驚かせたのであった。この日、人々は天子の尊厳を始めて知ったのである。

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まさごくおもむかんとし、村塾そんじゅくかべ留題りゅうだい
宝祚隆天壌

千秋同其貫

何如今世運

大道属糜爛

今我岸獄投

諸友半及難

世事不可言

此挙旋可観

東林振季明

太学持衰漢

松下雖陋村

誓為神国幹
※安政五年 (1858) 十二月の作。二十九歳。
安政二年 (1855) 十二月、病気療養を名目として野山獄から出て杉家の幽室に移ることを許された松陰は、翌安政三年 (1856) 八月頃から近隣の子弟のために 『武教全書』 の講義を始め、やがてこれが松陰の叔父玉木文之進や久保五郎左衛門の開いていた私塾の名を受け継いで松下村塾となった。
ところが、村塾に集う人々の言動が政情に対して次第に過激なものとなってゆき、安政五年の秋には幕府老中間部詮勝を襲撃する血盟がなされたりもしたため、藩庁では再び松陰を野山獄に厳囚する処置をとった。
本詩は野山獄に戻されるにあたり、松下村塾に書き留めたもの。

宝祚隆天壌=宝祚は、帝位。天壌は、天地に同じ。『日本書紀』 神代紀下に、「宝祚の隆んあなる、当に天壌と与に窮まり無かるべき者なり」。
同其貫=皇統が万世一系であることをう。『漢書』 董仲舒伝に 「夫れ帝王の道は、豈に同条共貫ならざらんや」。
今世運=運は、時運、時勢のめぐりあわせ。この句、「今の世運」 とも読める。
岸獄=岸も獄も牢屋。『詩経』 小雅に「岸にある宜く獄にある宜し」。

ほう 天壌てんじょうさかんに
千秋せんしゅう かんおなじうす
何如いかんぞ 今世きんせいうん
大道だいどう らんぞくするを
いま われ 岸獄がんごくとうぜられ
諸友しょゆう なかばはなんおよ
せい からず
きょ かえって
東林とうりんみんるい
太学だいがく衰漢すいかんさそ
しょう 陋村ろうそんいえど
ちかって神国しんこくかんらん
諸友半及難=この年の十二月の初め、松陰が再び野山獄に入れられると聞き、松下村塾の門人八名が藩の重役邸におしかけたため、藩庁では八人を自宅に幽閉する処分を下した。
東林=
明末の政治結社である東林党。張居正の独裁的な内閣を批判して免職もしくは左遷された顧憲成らが万歴三十二年 (1604) に無錫 (江蘇省無錫市) に東林書院を設立し、在野の有志を糾合して政治批判の講学を展開した。その活動に結集した人々を東林党と呼び、たびたび弾圧されたが、明朝滅亡に至るまで常に政争の中心となった。松陰のこの詩では、不穏な行動ということで幽閉された松下村塾の青年達を、明の東林党および後漢の清流派 (次句) になぞらえ、必ずその行動の正しさが理解される日のあることをいう。
季明=明朝末期。季は、末の意。
太学=朝廷が都に設けた大学で、官僚となるべき人材を教育する。ここでは後漢の末に宦官およびそれと結託する官僚 (いわゆる濁流派) を批判して、大学の学生が在野の人士を巻き込んで全国的な政治運動を展開したことをさす。 宦官政治を批判する人は自らを清流派と称していた。
永平九年 (66) 宦官側では清流派を不穏な徒党を組む党人であるとして政界から追放する勅令 (党錮の禁) を発布させたが、これによって多くの士人が後漢の朝廷に希望を失い、王朝の滅亡へとつながっていった。
松下雖陋村=松下は、塾のある松本村 (萩市椿東) の漢訳であるとともに、松下村塾にかける。陋村は、狭いいなかの村。

天子の位は天地とともに栄え、永遠に一系に貫かれてきた。
しかるに、何としたことか近ごろの時勢では、正しかるべき国家の大道も今や爛れはてているというべきである。
今日、私は牢獄に入ることとなり、わが同志諸君も多くが憂き目をみている。
世情の動向は言うにたえない。その中で諸君の行動は、世人には不穏と映るかも知れぬが、まことに目を見張るものがある。
かって明朝の末期には、朝廷の腐敗を憤る官僚たちが東林党を結んで大きな政治運動を巻き起こした。大学の青年達が宦官を批判して立ち上がったことによって、衰えかかっている後漢の時代に、かろうじて正義を維持したという事実もある。
わが松下村塾は田舎の村にあるとはいえ、誓って日本の支えになろうではないか。

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