出獄帰国之間、雑感五十七解
其 一 其 二 其 三 其 四 其 五
其 六 其 七 其 八 其 九

出獄しゅつごく こくかん雑感ざつかん じゅう しちかい
嘉永七年 (1854) 九月から十月にかけての作。二十五歳。
海外への密航を企図した罪状について幕府の下した判決は、松陰および金子重之助は長州藩に、佐久間象山は松代藩に、それぞれ 「在所表において蟄居」 ということであった。
これによって松陰と金子重之助は本年9月十八日に出獄、萩へと護送された。十月二十四日の長州到着までの間、病躯の金子は衰弱はなはだしく、その心気を奮い起こしてやりたいという思いもあって、松陰は連日のように短古 (五言の古詩) を作り続け、金子に示しては旅の慰めとした。
金子は翌安政二年 (1855) 一月十一日、萩の岩倉獄にて二十五歳をもって病没。野山獄でその訃を聞いた松陰は、旅中の詩を整理して 「五十七短古」 と総題し、末尾に次のように書き添えている。
「去年九月十八日、江戸の獄を出づ。象山翁と別れ、渋生 (金子重の助) と同に檻輿 (囚人護送の駕籠) もて国に送らる。時に渋生病篤く、気息偃々たり。 予、思う所有り、輒ち綴りて五言四句を為り、夜には則ち渋生に語ぐ。渋生?(コウ)慨し、病を忘るること数々なりき。国に到る此おい、積みて五十七解に至る。今や渋生は長逝し、象山は一字の往来無し。偶々これを古紙中に獲て、愴然これを久しうす。乙卯 (安政二年) 正月念二 (二十二日) 、松陰生識す」。
金子重之助を渋生と呼んでいるのは、国外への密航を企てている頃、金子が渋木松太郎の変名を用いていたことによる。
解は、楽曲・詩歌・文章の章節を数える単位。
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其の一
去年雲外鶴

今日籠中鶏

人事何嘗定

皇天甚不斉
去年きょねん 雲外うんがいつる
今日こんにち 籠中ろうちゅうとり
じん なんかつさだまらん
皇天こうてん はなはひとしからず

去年雲外鶴=このたび江戸の獄舎から出せれたのは九月十八日で、ちょうど一年前の同じ日に海外へ渡航するために長崎へ向かって江戸を発った。
中鶏=一般の罪人を護送するには唐丸 (鶏の一種) を運ぶ時の籠に似た駕籠を用いるので、それを唐丸送りといい駕籠を唐丸籠と呼ぶ。士分でない金子は唐丸送りかと思われる。
何嘗定=人の運命の定まりなきことをいう。
皇天=大いなる天。天の神。
不斉=前後同一でないこと。

去年、海外へ出ようと決意した時には、まるで雲のかなたへ飛び立とうとする鶴のようなものであったものが、今日では鶏のごとく唐丸籠で護送される罪人の身だ。
人の身の上は何と定めなきことか。天帝の下される処遇が、その時その時、かくも食い違っているとは。
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其の二
推枕窺窗戸

朝暉晴色新

太陽無私照

亦及縲紲人
まくらしてそううかがえば
ちょう 晴色新せいしょくあらたなり
太陽たいよう しょう
縲紲るいせつひとおよ

推枕=枕片隅におしやること
窗戸=窗は、窓に同じ、まど。戸は、出入り口。
朝暉=朝の太陽の光。
太陽無私照=私照は、かたよって照らすこと。
縲紲人=罪を得て囚われている人。 縲紲は罪人を拘束する縄目。

藩邸の牢内で枕を押しのけて起き上がり、窓から外の様子を眺めてみると、朝日の中、さわやかに晴れ渡っている。
太陽は恣意に世を照らすことをしない。こんな囚われ人にも光をさしかけてくれるのだ。
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其の三
龍水来従信

無情却有情

欲問故人事

唯為激怒声

龍水りゅうすい しんたる
じょう かえってじょう
じんことわんとほつすれば
げきこえ すのみ

龍水=天龍川。  信=信濃の国。
故人=古いなじみのある人。佐久間象山をさす
この年九月十八日に伝馬町の牢から出た象山は、松陰とおなじく国許での蟄居を命ぜられて信州松代へ帰っていた。
激怒声=天龍川の激しい水音。密航事件についての幕府の裁定にあからさまに不平を言うことは憚られるが、怒号する水声に胸中の意を寄せた。

天龍川は信州から流れ下ってくる。もの言わぬ水は、つれないどころか、かえって情が深いのかもしれない。
私が水の上流にある懐かしい人のことを尋ねてみようとしたら、ただ怒り逆巻く水音で応えてくれた。
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其の四
少年志所有

題柱学馬卿

今日檻輿返

是吾昼錦行
少年しょうねん こころざところ
はしらだいするはけいなら
今日こんにち かん輿にしてかえ
昼錦行ちゅうきんこう

題柱=題は、書き付けること。。柱は、ここでは萩の郊外に有る明木橋の橋柱。松陰の自注に、 「明木橋を過ぐ。橋は萩を去ること二里。予、幼時此を過ぐるに、戯れに司馬相如が昇仙橋に題せし語を題す。今又た此を過ぎ、これを思いて慨然たり」 。
学馬卿=馬卿は、前漢時代、武帝側近の文章家で、辞賦の高手として知られる司馬相如。馬は、司馬姓の略称。卿は、敬称。
『華陽国志』巻三、蜀志に、司馬相如がはじめて蜀の成都 (四川省成都市) から都長安へ出向くにあたり、成都郊外の昇仙橋のほとりで、「赤車駟馬に乗らずんば汝が下を過ぎず」 と書き付けていったという。赤車駟馬は四頭だての馬に引かせた朱塗りの車で、貴人の乗り物をさし、立身出世しない限り故郷へはもどらぬと、その決意を示したもの。松陰は少年の頃、司馬相如にならって同じ語を明木に書き付けた。
昼錦行=秦王朝を滅ぼした項羽は、軍事上の要地である関中に拠ることをせず、自分の出身地である長江下流域へ帰ろうとして、「富貴にして故郷に帰らずんば、繍を衣て夜行くが如し」 といった。繍は、錦繍、美しい縫いとりをした着物。この項羽の語から出て、故郷に錦を飾ることを昼錦というようになった。

少年の日、志すところがあって、漢の司馬相如にならって明木橋の柱に言葉を書き付けたことがあった。
今日、唐丸籠で護送されて帰ってくることになったが、これはこれで、私なりに故郷へ錦を飾っての旅なのだ。
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其の五
勇往踏至険

挫折豈顧躯

仮得狂愚毀

勝没名利区
勇往ゆうおうしてけん
せつするもかえりみんや
たときょうそしりをるとも
めいぼつするにまさ

勇往=勇往邁進、いさみたって行動に踏み切る。
踏至険=下田でペリー「に率いる米艦に搭乗して国外へ出ようとしたことをさす。
狂愚毀=狂気の沙汰、愚劣な行為と非難されること。
没名利区=名誉や利益を求めて俗世間の中であくせくとすること。

思い切って危険な行動に出た。失敗に終わってしまったが、いまさら命を惜しみはしない。
たとえ狂愚の沙汰と非難されようとも、あくせくと俗世間の名利に身を沈めているよりはましだろう。
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其の六
人生如草露

辛艱何足虞

勿顧一朝苦

遂空千歳図
人生じんせい そうごと
辛艱しんかん なんおそるるにらん
一朝いっちょうおもいて
つい千歳せんざいむなしうするなか

辛艱=辛苦艱難。  一朝苦=一時的な困苦。  千歳図=千年不滅の雄図。

人の一生は草の上の露のように短くはかないものだ。そのなかで辛い目にあったとしても、たかの知れたこと、恐れるに足りぬ。
一時の苦しみを思いわずらうあまりに、永遠に伝わる偉大な企図を無視するようなことがあってはならない。
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其の七
志遂為俊士

計蹶為囚奴

俗子難与議

成敗論丈夫

こころざし ぐればしゅん
けいつまずけばしゅう
ぞく ともがた
成敗せいばいもてじょうろん

俊士=もと周代の制度で三年に一度の選抜によって大学 (都の大学) に入学を許された俊秀をいい、のち広くすぐれた人物をさしていう。
囚奴=とらわれ人。
俗子=世間の人。見識の狭い卑俗な人々。
丈夫=一人前の立派な男。

その志を成功させれば立派な男といわれ、計画に失敗すれば囚人となる。それだけの違いだ。
俗人とは論議をともにすることは難しい。かれらは成功したか失敗したか、ことの結果だけを見て人物を決めてかかる。
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其の八
去年辞父母

心誓不復還

計違亦自好

又得拝慈顔
去年きょねん 
こころちかう かえらずと
計違けいたがうもおのずか
がんはいするをたり

去年=も嘉永六年 (1853) 十一月、長崎からの帰途、萩に立ち寄って十日あまりを過ごして以来、本年十月二十四日に護送されてくるまで、松陰は長州に戻っていない。
父母=吉田家での養父大助は天保六年 (1853) 、松陰六歳の時に没しているから、ここでは実父母である杉百合之助と滝をさす。
不復還=秦王を暗殺しようと燕を出発する荊軻が、易水のほとりで別れを歌って、「壮士一たび去って復還らず」 と (『史記』 刺客列伝)
計違=下田での米艦に搭乗して国外へ出る計画に失敗したこと。

去年、両親にお別れをして国を出る時には、もう帰ってくることはあるまいと心に思っていたのだ。
海外へ渡航しようとした計画は失敗に終わってしまったが、それはそれでまた好いこともある。もう一度両親のお顔を見ることが出来たのだから
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其の九
無限心上事

一一附小詩

詩成那須記

心上?自知
げん 心上しんじょうこと
一一いちいち しょう
るもなんするをもちいん
心上しんじょう みずかるのみ

附小詩=附は、寄せる。思いを詩に寄せて表したこと。小詩は、ここ連作 「五十七短詩」。
心上?自知=?(タダ) は只に同じ。心の中のくさぐさは自分だけが知っていればよいことで、このたび囚徒となって送られてきたことの成敗得失は、すべて世の評するままに任そうとの気持ちであろう。

心に限りなく浮かんでくるさまざまな事ども。その一つ一つをささやかな詩に表してきた。
さて詩は出来たが、それを書き残しておくまでのことはない。胸中の思いは、ただ自分だけが知っていればよいのだから。
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