〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜

楊一族の繁栄 (三)

なかでも最も派手だったのは?国 (カクコク) 夫人で、すでに述べたように、少女の頃無頼の徒であった楊サ (ヨウショウ) に犯され、・裴 (ハイ) 氏に嫁したものの、楊サが上京して玄宗に取り立てられた頃はすでに未亡人になっていたため、ふたたび楊サと通じるようになったらしい。
やがて、この二人は邸を並べて構え、昼夜を分たず勝手に往来するのみならず、参内に際しても轡を並べ、夫人なら必ず垂らすべき障幕も垂らさぬまま仲良く出かけたので、沿道の人々は目を俺ったという。
杜甫に 「?国 (カクコク) 夫人」 なる七言絶句がある。

?国かくこく 夫人 主恩を
  明 馬に上りて宮門に入る
かえ って脂粉の顔色をけが すを嫌い
淡く いて至尊に朝す

素顔に自身があったればこそ、さっと眉を描いただけで帝にお目通りしたというのだが、さて玄宗は?国 (カクコク) 夫人にお手をつけたのか。
姉妹で帝の寵愛を受ける例は少なからず、ふたたび武則天を引き合いに出せば、高宗は皇后となった武則天の一族を厚遇し、その姉を韓国夫人に列した。そして気の強い皇后の目を盗んで、密かに韓国夫人と情を通じていたが、やがてそのことを察知した皇后によって、韓国夫人は消されてしまう。
『後漢書』 の注釈者として名を留める章懐太子 (ショウカイタイシ) すなわち李賢 (リケン) は、高宗と武則天のあいだに生まれた第二皇子 (高宗の子としては第六皇子) であるが、実は、この韓国夫人が生母であるといわれている。韓国夫人亡き後、彼女と亡夫との間に生まれたむすめが成人し、これも高宗から魏国夫人を賜ったが、魏国夫人もまた高宗の寵を受けたため、武則天に毒殺された。
ところで、玄宗は楊貴妃の姉である?国 (カクコク) 夫人 にお手をつけたのか。さきにあげた杜甫の詩からすると、そのことを暗示しているようにも思われる。しかし、すでに六十歳をこえ、楊貴妃を寵愛している玄宗が、?国 (カクコク) 夫人にまで好色の手をのばしたかどうか。彼女は楊サと通じ、楊貴妃の姉というだけで気ままに暮らしていたのではあるまいか。
?国 (カクコク) 夫人ばかりではない、韓国夫人と秦国夫人、それに楊貴妃の兄である楊銛 (ヨウセン) と、弟あるいはいとこの楊リ (ヨウキ) をひっくるめて楊氏五宅 (ヨウシゴタク) と称したが、彼らの権勢たるやまた大変なもので、楊氏五宅の下僕までが肩で風を切って長安を闊歩していた。
たとえば、あるとき玄宗の公主 (内親王) たちの一人広平 (コウヘイ) 公主の従者といさかいを起こし、楊氏の下僕が鞭をふるったところ、鞭の先が公主の衣に触れ公主は落馬した。それでも下僕は鞭をふるうのをやめなかったので、公主が泣いて父帝に訴え、その下僕は杖殺 (ジョウサツ) せられたという。しかし、落馬した公主を扶けおこした程昌裔 (テイショウエイ) なる役人も官を免ぜられた。
また、玄宗が楊貴妃を伴って華清宮へ幸するときは、れいの三夫人も従うのが常であったが、彼女たちは楊サの邸で落ち合うことになっていた。ところが、彼女たちの馬車や従者たちが多すぎて邸の周辺の数坊 (坊とは市街の一区画) にあふれ、けばけばしさで人の目を奪ったという。そんなとき、楊サは客に、 「おれたちの一族は、もともと名もない貧乏人だった。それがここまで来たわけだが、終わりを全う出来ないかもしれん。だから、今のうちに享楽の限りを尽くしておくに若かずだ」 と語った。
楊氏五宅のおびただしい從僕たちは、一宅ごとに決まった色の服を着用していた。だから、全部集まると錦の織物のように見えたという。
楊氏五宅をふくめての一族の栄耀栄華ぶりについては、宋初の楽史が書いた 『楊太真外伝』 に詳しい。いまはこれ以上縷々述べるのはやめるが、当時の俗謡を二つあげておこう。

生女勿非酸、生男勿歓 
   (女が生まれたとて悲しむな。男が生まれたとて喜ぶな)
男不封候、女作妃君、看女却是門?
   (男がえらくならずとも、女がお妃さまになりゃあよい。乗っておくれよ玉の輿)  
前者の俗謡は、白楽天の 「長恨歌」 に見える次の二句へと昇華した。
遂に天下の父母の心をして
男を生むを重んぜず女を生むを重んぜしむ

現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:中野 美代子 ヨリ