〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/19 (金) 明石 元二郎

旅順要塞のロシア軍は明治三十八年一月一日に降伏した。五日には乃木と旅順要塞司令官ステッセルによる水師営の会見が行われ、半年以上も費やした第三軍の旅順要塞攻略にピリオドが打たれた。
その月の二十二日、ロシアの首都ペテルブルグでガボン神父が先導する大規模なデモ行動が起こった。
その制圧に派遣されたコサック兵が皇帝に対して請願要求を訴える労働者に向けて発砲。死者数百人を数える大事件に発展した。
ロシア革命の序曲 「血の日曜日」 である。
これを影で演出していたのが、日本陸軍大佐明石元二郎だった。

当時のロシヤ帝国内外には、その圧政に苦しむ多くの民が存在していた。児玉源太郎・福嶋安正の命を受けた明石は、ロシア軍と戦う日本陸軍とは別に、ヨーロッパにあって帝政ロシアの屋台骨を揺るがす謀略活動を展開させていた。
一口にロシアの反体制組織といっても国内の非公認社会主義団体やフィンランド、ポートランド、ルーマニアなどの国外勢力やユダヤ人など多種多彩であり、その結束が最大の懸案事項であった。
明石は開戦前の三年間をフランスとロシアの駐在武官として情報収集に従事していたが、日露戦争が勃発するとストックホルムにその活動拠点を移し、革命分子への本格的な協力体制を構築させていった。その活動費には児玉源太郎が現在に換算すると四百億円以上という莫大な資金を与えた。最近の研究では明石の諜報活動がロシア側には筒抜けで結果に結びつかないケースがほとんどだったと指摘されているが、レーニン本人が明石に対して 「感謝状を出したいほどだ」 と言っているように、ロシアを後方から大撹乱させたことは確かである。
そんな明石にとっての最大の協力者がフィンランドの過激反攻党党首のシリヤクスだった。
前年の十月にはシリヤクスの活躍で反ロシア活動家を結集させたパリ会議を成功させている。
これまで 「反ロシア帝国」 では共通していても各組織は対立と確執を深めていて一本化は難しい状況だったのだ。
このパリ会議において、ストライキ、デモ、テロ、要人暗殺など各自が得意とする実力行使によって、ロシアを内部から揺さぶるという合意がなされる。この実行者にはロシア軍内部のメンバーも多数含まれていた。
一月十九日にはロシア皇帝が滞在中の冬宮が砲撃されている。空砲に混じって実弾が発射されたもので、ロシア皇帝と首脳陣を一気に葬る計画だったようだが、成功には至らなかった。
しかし、この事件と旅順要塞陥落のニュースから、ロシア国内に革命の気運は過熱していく。
そして明治三十八年二十二日の 「血の日曜日」 につながるのである。
また、シリヤクスを通じてポーランドの活動家からロシア軍内のポーランド兵の戦線離脱工作とロシア国外に流寓するポーランド人からなる軍事部隊の編成を持ちかける。この奇想天外な話は大本営には相手にされなかったが、日本軍が戦っている現時点でのロシア軍に占めるポーランド人の比率の高さからいえば、その効果は絶大なものがあったことだろう。

明石元二郎は福岡藩士の次男として生まれた。
明石家は代々千五百石を食んだ家柄であったが、父助九朗が二十九歳で切腹する。ここから元二郎一家は貧窮の一途をたどる。
幕末の福岡藩は五十二万石とう九州の雄藩だったが、佐幕・勤王の姿勢が定まらず、時代の流れに乗り遅れてしまう。
戊辰戦争での莫大な支出から贋金づくるに手を染めたが、発覚。明治二年には明治政府の調査が入っている。そのため官軍に属して戦ったにもかかわらず、新政府への参加では冷遇されていた。
明石を含めた同郷の金子堅太郎や杉山茂丸などが日露戦争の舞台裏で活躍する宿命の要因の一つでもあるのだろう。
厳しい境遇に堕ちた元二郎ではあったが、母秀子によって 「武士の子」 として厳しく育てられていく。
貧しい生活でも 「武士は金銭にこだわるな」 というもので、後年に明石が百万円という活動費を与えられても使途不明金は一切見当たらず、残金として二十七万円を長岡外史に返納しているエピソードにつながっている。
しかし明石は武士の子として身なりや身だしなみは躾られなかったようで、幼少の頃から生涯を通じて 「洟垂れ」 「赤目」 と渾名された。
陸軍幼年学校の服装の乱れは既に伝説になっていて 「汚れの明石」 とはこの頃からの渾名である。大事をなす者にとって、そのようなことは取るに足らないことなのだろうか。
論議に熱中するあまり失禁して、山縣有朋の着物を濡らした逸話や、醤油を用いず刺身にパクつく明石の姿を訝った友人がそれを問うと、初めて醤油がなかったことに気づくなどの明石の奇行の数々。よくこれでパリやベルリンの社交界での諜報活動に支障きたさなかったものだと不思議に思ってしまう。
明石が諜報活動家として成功した最大の理由は相手に警戒されない風貌だったといわれている。それが故に信頼を得られやすかったというのだが、我々が考えるスパイのイメージとは全くかけ離れていたことは確かなようである。
明石の活躍によってロシアは日本海開戦に破れた段階で講和を余儀なくされる。ロシヤは軍事的には十分に余力はあったが、国内の情勢不安が戦争を続行させることを断念させたのだ。
明石元二郎の功績は大きい。
戦後は大将まで進み、台湾総督となってからの評判はまずまずだった。これは韓国駐箚憲兵司令官時代に韓国人民を力で押さえつけた失敗を、杉山茂丸に指摘されての反省によるものともいわれている。
大正八年脳卒中で死去。
ロシアでの間諜活動で一晩中雨に濡れても風邪ひとつ引かなかったという明石の最後の言葉は、
「人間とはもろいもんだなあ」。
たった一人で帝政ロシアを揺さぶった大諜報家の死は呆気ないものだった。

「日露戦争・明治人物列伝」 編著・明治 「時代と人物」 研究会 ヨ リ