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2007/05/28 (月) 近代国家と “圧搾空気” ・ 教育勅語 (二)

教育勅語は明治二十三年 (1890) に発布されたものですね。私はこれから教育勅語論をするのではなく、教育勅語の文章、日本語としての教育勅語の話をしていきたいと思います。
教育勅語は日本語というよりも漢語ですね。日本人にとって漢語は、ヨーロッパ人におけるラテン語のようなものであります。
一つの観念を表現したり、あるいは難しいことを表現する時に、日本人はやはり和文よりも漢文だと思い込んでいたところがありますね。同時に、日本語の発達のために漢文は大いに役には立ったのですが、それにしても教育勅語は漢文そのものでした。
おそらく最初は漢文で書いたのではないでしょうか。
草庵を書いた人は元田永孚 (モトダ ナガザネ) (1818〜91) という人でした。元田永孚という人は漢学者です。独創的な考えを持っているというよりは、非常に優秀な学者ですね。
生まれは熊本県でした。熊本県のお侍の中でも大変格の高い家柄に生まれ、持習館という藩校に通いました。
時習館は見事な藩校であります。二百何十藩の藩校の中でも第一位に位するほどの立派な学校でした。江戸中期以後に出た殿様で、銀台公と呼ばれた細川重賢 (ホソカワ シゲカタ) (1720〜85) という方がいらっしゃいます。
その殿様が秋山玉山 (アキヤマ ギョクザン) (1702〜63) という漢学者に任せて時習館を作らせたのですが、玉山はこう考えました。
「朱子学を学ばせない方がいい」 と。
朱子学は理屈っぽい、議論の学問です。私は朱子学というものを本当に呪わしく思うときがあるぐらいなのですが、この影響を深刻に受けたのは中国よりも朝鮮でした。中国は広いですからいろいろな考え方が雑居できますが、朝鮮は狭いですからそうはいきません。朱子学一元主義といいましょうか。一価値主義といいますか、そうなりますと、官僚が非常に理屈っぽくなるわけです。李氏朝鮮は五百年続くのですが、朱子学が国の隅々まで締め付け、人々は非常に理屈っぽくなった感じがするぐらいです。
日本人はわりあい理屈っぽくないのですが、朱子学を学んだ人は理屈っぽい。秋山玉山はよくわかっていました。
特に熊本という所は、一人一党の土地柄で論を立て始めたら誰も譲らない。ただでさえ理屈っぽい、この肥後の風土の中で朱子学を学ばせたら、理屈っぽい人間ばかりになって、もうどうしようもないと考えた。
ですから古文辞学を入れましょうと、これは荻生徂徠 (オギュウ ソライ) の学問であります。
物を平たく見る学問、ちょっとオーバーな言い方をしますと、今日の人文科学に近い学問ですね。
朱子学一点張りの江戸時代に、すぐれて独創的だった荻生徂徠は、案外もてはやされているのです。ずいぶん門弟も多く、ですから玉山は物を三角なら三角、四角なら四角と見る荻生徂徠をやりましょうと提案した。
そして、その構想通りに最初は進んだのですが、いつの間にか朱子学が入り込んできて、時習館の主流は朱子学になっていった。
その江戸期の末端に、元田永孚さんがいらっしゃいます。
元田永孚は江戸期にすでに偉い人でした。細川護熙さん (元熊本県知事・元首相) のひいじいさんぐらいになる殿様の侍講を務めた。しょっちゅうお側にいて朱子学を講ずる仕事ですね。さらにその後、明治天皇の侍講になりました。
維新成立の時、まだ明治天皇は若うございましたじゃら、その家庭教師の一人になった。そうして明治二十三年、教育勅語を起草した。ですから、教育勅語は朱子学そのものであります。

『昭和という国家 』 著・司馬 遼太郎 発行所・日本放送出版協会 (NHK出版) ヨ リ