〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/04/17 (日) 女性の歌 (四)

於大が華陽院から珍しいきびの飴 (黒砂糖) を少量託されて北の丸を辞したのは八ツ (午後二時) すぎだった。あめと呼びながらもこの黒い固形物にはねばりがなかった。そのうえ舌へのせると、しびれるような甘味が口中に広がってゆく。
甘蔗かんしょ などというものは、まだ日本にあるのを誰も知らない。製品としての砂糖が渡来したのは孝謙こうけん 天皇てんのう の天平時代だったが、甘蔗の渡来はじっと後で、一般が知るようになったのは慶長けいちょう 年間薩摩さつま栽培さいばい し出してからであった。
そんな時代のきびの飴を、華陽院はお久の方の生んだ勘六に、於大の手で届けてやれという。
お久の方が、これを素直すなお に勘六に与えるとは思えなかった。それでなくとも、華陽院やお屋敷さまを、猜疑さいぎ している様子の見えるお久の方なのだ。
於大には華陽院の心が分らなかった。華陽院は於大が勘六に負けない世継ぎを早く生むようにとねが っている。そのことだけは薄々わかっても、わざわざ世間にない、ふしぎな土産を勘六に賞味させようとは・・・・?
近ごろの於大はもう広忠の愛情にこたえて燃えている、自分の中の女の息づきはわかりかけている。
広忠が討ち死にしたら、自分も死にたいと言ったのは、臥床をひとつにしたときの、甘くかなしい感情のいつわりのない告白だった。柔らかい羽毛の中に抱き取られて、うっとりとにじ の橋を渡ってゆくと、そのまま息絶えても悔いのないふしぎなしび れが全身をとかしてゆく。
こんなときにお久の方を想い出すのはたまらなかった。誰の手にも渡さずに、自分だけでしっかり広忠を?ぎとめておきたかった。
といって?ぎとめるにはどうすればいいのかなどと、それまで考えたことはない。が、どこかで、お久の方が、自分に対して抱くであろう妬心や憎しみはわかる気がした。
そのお久の方の部屋をたずねて、勘六に土産を届けよというのである。
大奥へ帰って来ると、わが居間へ寄らずに、於大はそのままお久の部屋をおとずれた。
「お屋敷さま、不意のお越しでございます」
女中の方がびっくりして取り次ぐと、お久の方は、あわてて入り口へ出迎えた。夏であった。うすものの着崩れを直しきれずに、
「ようこそお渡り遊ばしました」
言葉は優しかったが、お久の目には、あらわに反感が見てとれた。
於大は軽く会釈したまま黙って上座かみざ へ通っていった。
「おお、牡丹ぼたん が見事に咲いている」
「はい、お殿さまのお言いつけで、毎年庭に植えまする」
「お久 ──」
「はい」
「私のあげた棉は事のう育っていやるか」
「は・・・はい」
そこではじめて於大は次の間に遊んでいる勘六に眼をうつして、
「華陽院さまから勘六どのにお土産を下されました。甘酒よりも串柿くしがき よりもずっと甘い。きび・・ からとりました飴じゃそうな。だい・・ が取らせましょう。勘六どのをこれへ」
小さな紙づつみを取り出すと、お久の方の顔からはサッと血の気がひいていった。

徳川家康 (一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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