昭和十二年(1937)、日本軍による南京占領の後、「三十万人の大虐殺」が起きたという話がありますが、これはフィクションです。この件は日本と日本人の名誉に関わることですから、やや紙幅を割いて書きます。
盛んに宣伝した事件です。たとえば、南京大虐殺を世界に最初に伝えたとされる英紙マンチェスター・ガーディアンの中国特派員であったオーストラリア人記者のハロルド・ティンバーリは、実は月千ドルで雇われていた国民党中央宣伝部顧問であったことが後に判明しています。その著作“What War Means:TheJapanede Terror China”(邦訳『外国人の見た日本軍の暴行─実録・南京大虐殺─』)の出版に際しては、国民党からの偽情報の提供や資金援助が行なわれていたことが近年の研究で明らかになっています。
また「南京大虐殺」を世界に先駆けて報じたアメリカ人記者ティルマン・ダーディンも『シカゴ」・ディリー・ニュース』記者のアーチボルド・スティールも南京陥落直後に南京から離れています(つまり伝聞)。
当時、南京には欧米諸国の外交機関も赤十字も存在しており、各国の特派員も大勢いたにもかかわらず、大虐殺があったと世界に報じられてはいません。三十万人の大虐殺ともなれば、世界中でニュースになったはずです(捕虜の処刑は別)。
また、同じ頃の南京安全区国際委員会の人口調査によれば、占領される直前の南京市民は約二十万人です。もう一つおかしいことは、日本軍が占領した一ヶ月後に南京市民が二十五万人増えていることです。いずれも公的な記録として残っている数図です。仮に日本軍が一万人も殺していたら、住民は蜘蛛の子を散らすように町から逃げ出していたでしょう。南京市民が増えたのは、町の治安が回復されたからに他なりません。当時の報道カメラマンが撮った写真には、南京市民が日本軍兵士と和気
藹々
と写っている日常風景が大量にあります。占領後に捕虜の虐殺があったことは事実ですが、民間人を大量虐殺しや証拠は一切ありません。
二十五万人という数字は安全区だけのもので、それ以外の地区は含まれていないという主張もありますが、安全区以外の地域にはほとんど人がいなかったという外国人の証言が多数残っています。
もちろん一部で日本兵による殺人事件や強姦事件はありました。ただ、それをもって大虐殺の証拠とはいえません。
今日日本は世界でも最も治安のいい国といわれていますが、それでも殺人事件や強姦事件は年間に何千件も起きています(近年の統計によれば、殺人は九百~一千件、強制性交等はそれ以上)。ちなみにアメリカでは毎年、殺人と強姦が合わせると数十万件も起きています。ましてや当時は警察も法律も機能していなかったことを考えると、平時の南京では起こらないようないたましい事件もあったと思われます。
また南京においては「
便衣兵
べんいへい
」の存在もありました。便衣兵とはわかりやすく言えばゲリラです。軍人が民間人のふりをして日本兵を殺すケースが多々あったため、日本軍は便衣兵を見つけると処刑したのですが、中には便衣兵と間違われて殺された民間人もいたかも知れません。
こうした混乱が起きるのが戦争だとも言えます。たとえば戦後の占領下で、アメリカ軍兵士が日本人を殺害したり、日本人女性を強姦したりした事件は何万件もあったといわれます。これらは許されることではありませんが、占領下という特殊な状況において、平時よりも犯罪が増えるのは常です。要するに、南京において個々の犯罪例が百例、二百例あろうと、それをもって大虐殺があったという証拠にはならないのです。
三十万人の大虐殺というじゃらには、それなりの物的証拠(遺体、遺品、ガス室、殺害記録、命令書、写真その他)が多数残っており、今日でもなお、検証が続けられています。
しかし「南京大虐殺」は伝聞証拠以外に物的証拠が出て来ません。証拠写真の大半は、別事件の写真の盗用ないし合成による捏造であることが証明されています。
そもそも日中戦争は八年も行なわれていないのに、南京市以外での大虐殺の話はありません。八年間の戦争で、わずか二ヶ月間だけ、日本人が狂ったように中国人を虐殺したというのはあまりにも不自然です。とりわけ日本軍は列強の軍隊の中でもきわめて規律正しい軍隊で、それは世界でも認めていました。
「南京大虐殺」とは、支那事変以降、アメリカで蒋介石政権が盛んに行なった反日宣伝活動のフェイクニュースでした。日本軍による「残虐行為」があったとアメリカのキリスト教団とコミンテルンの工作員が盛んに宣伝し、「残虐な日本軍と犠牲者・中国」というイメージを全米に広めたのです。このイメージに基づいて、後年、第二次世界大戦後に開けれた「極東国際軍事裁判」(東京裁判)では、日本軍の悪行を糾弾する材料として「南京大虐殺」が取り上げられる「ことになります。
実は東京裁判でもおかしなことがありました。この裁判では、上官の命令によって一人の捕虜を殺害しただじぇで絞首刑にされBC級戦犯が千人もいたのに、三十万人も殺したはずの南京大虐殺では、南京司令官の
松井石根
まついいわね
大将一人しか罪に問われていないのです。規模の大きさからすれば、本来は虐殺命令を下した大隊長以下、中隊長、小隊長、さらに直接手を下した下士官や兵などが徹底的に調べ上げられ、何千人も処刑されているはずです。しかし現実には、処刑されたのは松井大将一人だけでした。
東京裁判で亡霊の如く浮かび上がった「南京大虐殺」は、それ以降、再び歴史の中に消えてしまいます。「南京大虐殺」が再び姿を現すのは、東京裁判の四半世紀後のことでした。
昭和四十六年(1971)、朝日新聞のスター記者だった本多勝一ひんだかついちが「中国の旅」という連載を開始しました。その中で本多は、「南京大虐殺」を取り上げ、日本人がいかに残虐なことをしてきたかを、嘘とデタラメを交えて書いたのです。これが再燃のきっかけとなりました。
この時の取材、本多の南京滞在はわずか一泊二日、「南京大虐殺」を語った証言者は中国共産党が用意したわずか四人でした。後に本多自身が「中国の視点」を紹介することが目的の『旅』であり、その意味では『取材』でさえもない」と語っています。
本多の連載が始まった途端、朝日新聞をはじめとする日本の多くのジャーナリズムが「南京大虐殺」をテーマにして「日本人の罪」を糾弾する記事や特集を組み始めました。そうした日本国内での動きを見た中国政府は、これは外交カードに使えると判断したのでしょう。以降、執拗に日本政府を非難するようになったというわけです。本多勝一の記事が出るまで、毛沢東もうたくとうも周恩来も中国政府も、一度たりとも公式の場で言及したことはなく、日本を非難しなかったにもかかわらずです。それ以前は、中国の歴史教科書にも「南京大虐殺」は書かれていませんでした。
「なかったこと」を証明するのは、俗に「悪魔の証明」といわれ、ほぼ不可能なこととされています。つまり、私がここで書いたことも、「なかったこと」の証明にはなりません。ただ、客観的に見れば、組織的および計画的な住民虐殺という意味での「『南京大虐殺』はなかった」と考えるのがきわめて自然です。 |