〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2011/01/05 (水) 賀川 豊彦

行李こうり 三つに本箱一つを乗せた荷車が、神戸・葺合の新川貧民街の路地に入って行った。十軒長屋の東から二軒目、三畳と二畳、二間の空家の前にがじ棒をおろした。一年ほど前に殺人事件があって、その壁には血しぶきが残っていた。突当りに、あふれかえった共同便所。荷車の主、賀川豊彦は神戸神学校 (葺合区熊内通) の学生。そのとき二十一歳であった。明治四十二年十二月のことである。
明治末から大正初年にかけての不況は、新川貧民街の底辺によどみ、七千五百人の住民がその日の暮らしにあえいていた。 “もらい子殺し” がはやった。養育費目当てに幼児を預かり、栄養不良で死なせてしまう。残った養育料はまる儲け。賀川は、見かねて死にかけの赤ん坊を “もらい子殺し” の老女から引き取ったこともある。その時の詩 ──。

おいしが泣いて、目が めてお襁褓むつ を更へて、乳溶いて、椅子いす にもたれて、涙くる ==中略 お石を捨ふて今夜で三晩、夜昼なしに働いて、一時ひととき ねると、おいしが起こす。 == (中略) あ?おいしがおし になった、眼があかぬ、死んだのじゃ、おい、おい、まだ死ぬのは早いぜ、わしは葬式料がないんだぜ、南京虫が ─ すね んだ ─ あかゆ い。 (後略)
( 『貧民窟詩集 ─ 涙の二等分』 大正八年刊より )

神戸市東灘区本山町、今村好太郎住吉教会名誉牧師 (八三) は、当時、神戸神学校で賀川の一年先輩だった。賀川が詩集を出版したときの様子を聞いてみた。賀川は題名について、今村さんにこう言ったそうだ。
「学生の僕が、引き取った子を育てた。ミルクを買う金がない。子どもは泣く。情けなくなって自分も泣けた。涙をためてなめさせた。赤ん坊はペロペロなめる。涙の二等分だったのだよ」 。賀川は打ち明けたという。
大正三年、米国留学に出発。世間では洋行帰りの “新川の聖人” はもう貧民街に戻るまい、とうわさしていた。だが、同六年、旅行カバン一つをさげて帰国した賀川は、神戸に帰ってきた。
しかし、貧民救済にについての考えは、三年間の滞米中に、すっかり変わっていた。ニューヨークの貧民街の街角で、賀川は目を輝かせ、整然と行進する失業労働者のデモを見送った。帰国一年後に、賀川の目に焼き付いたデモの映像が活字にまとめられている。論文 『日本における防貧策としての労働運動』 のなかで、
「貧民階級をなくしてしまおうと思へば、今日の慈善主義では不可能である。救済思想の徹底はどうしても、労働問題に突き当たらねばならない」
と述べ、労働者新聞 『新神戸』 創刊号には 「無産階級の出現は、愛と光明の世界の創造」 と、特有の高い調子でうたった。自然、賀川は関西労働運動の指導者にたてられていった。
大正十年六月、川崎・三菱の大争議の実行委員になる。たすきがけ、パナバ帽をかぶり、神戸市内の示威行進の先頭を進んだ。七月末に警察の手が伸び、賀川ら争議団首脳百七十五人が一斉検挙された。
貧民街生活を綴った 『死線を越えて』 が大正九年に改造社から出版されると、二ヶ月足らずで十六版を重ね、ベストセラーになった。新川を訪ねる有名、無名の人があとを断たなく待った。アナーキスト大杉栄、求道者生活を送る徳富蘆花、伯爵有馬頼寧。東京女子大生の一行も二十日間泊まって下層階級の断面を学んだ。
神戸を訪ねたバートランド・ラッセル、アインシュタインも賀川に面会を求めた。
しかし労組側が惨敗に終わったこの大争議の後、関西の労働組合運動の内部にも、急進派の勢力が伸び議会主義を説く賀川は遠ざけられるようになった。賀川はこのころ、ろく膜炎や、新川生活で感染したトラコーマに苦しむ。そのかたわら、活動分野を農民運動、本来のキリスト教伝道に転じていった。
大正十二年九月二日午前、関東大震災の悲報を聞くと、その夕方には、こう賀川は神戸を出港する汽船のデッキに立っていた。実情視察のあと、翌月には、東京下町での本格的救助にあたる準備を整えた。
神戸で十四年間、賀川は貧困と絶えず戦い続け、傷つき、病んだ。新しい天地を求めた賀川は、しかし、生涯この戦いをやめなかった。
残暑の昼下がり、生田川べりの密集住宅地の路地から路地に歩いた。戦災が昔の十軒長屋、百軒長屋を焼き払ったあとに、建てたバラックも残っている。住民のだれかれに賀川のことを尋ねたが 「知らない」 という答えが返ってくる。五十年近い年月。賀川は忘れられ、新川は神戸市有数の不良住宅密集地として貧困は今も残っていた。

昭和42年発行 『兵庫百年 夜明けの人びと』 朝日新聞神戸支局編 発行所:中外書房 ヨ リ