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~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/11/28 だい えん しやう (三)
おなじき四月廿八日、亥剋いのこくばかり、樋口富小路ひぐちとみのこうじより、火出で来て、辰巳たつみの風のはげしう吹きければ、京中おほく焼けにけり。大きなる車輪の如くなるほむらが、三ぢやうぢやうをへだてて、戌亥ゐぬいのかたへすぢかへにとびこえとびこえ焼けゆけば、おそろしなんどもおろかなり。あるい具平親王ぐへいしんわう千種殿ちぐさどの、或は北野きたの天神の紅梅殿こうばいどの橘逸勢きついつせいのはひ松殿、鬼殿おにどの、高松殿、鴨居殿かもいどの東三条とうさんでう冬嗣ふゆつぎのおとどの閑院殿かんゐんどの昭宣公せうぜんこう堀河殿ほりかはどの、是を始めて昔今むかしいまの名所卅余箇所かしよ公卿くぎやうの家だにも十六箇所まで焼けにけり。其外そのほか殿上人、諸大夫しよだいぶの家々はしるすに及ばず。はては大内たいだいにふきつけて、朱雀門しゆしやくもんより始めて、応天門おうでんもん会昌門くわいしやうもん大極殿だいごくでん豊楽院ぶらくゐん諸司しよし八省はつしやう朝所あいたんどころ一時いちじがうちに、灰燼くわいじんの地とぞなりにける。家々の日記、代々の文書もんじよ七珍万宝しつちんまんぽう、さながら塵灰ちりはひとなりぬ。其間そのあひだつひえいかばかりぞ。人の焼け死ぬる事数百人すひやくにん牛馬ぎうばのたぐひは数を知らず。是ただごとにあらず、山王さんわうおんとがめとて、比叡山ひえいざんより大きなるさるどもが二三千おりくだり、手々てんで松火まつびをともいて京中きやうぢゆうを焼くとぞ、人の夢には見えたりける。
(口語訳)
同年四月二十八日、午後十時頃、樋口ひぐち富小路とみのこうじから火が起こり、東南の風が激しく吹いたので、京都中の多くが焼けた。大きい車輪のような炎が、町を三つも五つも隔てて、西北の方へ斜めに飛び越え飛び越え焼けていったので、恐ろしいどころではない。あるいは具平ぐへい親王の千種殿ちぐさどの、あるいは北野天神(菅原道真)の紅梅殿、橘逸勢きついつせいのはい松殿、鬼殿、高松殿、鴨居殿、東三条、冬嗣の大臣の閑院殿、昭宣公しょうぜんこう(基経)の堀河殿、これらを始めとして、昔と今の名所三十余か所、公卿の家でさえも十六か所まで焼けた。そのほか殿上人・諸大夫の家々は記すまでもない。しまいには内裏にも火が吹きつけて、朱雀門しゅじゃくもんから始まって応天門・会昌門かいしょうもん・大極殿・豊楽院ぶらくいん・諸役所・八省。朝所など、あっという間に焼け野原と化してしまった。家々の日記、代々の文書、七珍万宝が、すっかり塵灰となった。その損害の額はどのくらいであろうか。人が焼け死ぬことは数百人、牛馬の類に至っては数えきれない。これはただ事ではない。山王権現のおとがめというので、比叡山から大きい猿どもが二、三千匹降り下り、てんでにたいまつをともして京中を焼くのだと、夢で見た人もあった。
大極殿だいごくでんは、清和せいわ天皇てんわう御宇ぎよう貞観ぢやうがん十八年に、始而はじめて焼けたりければ、おなじき十九年正月三日みつかのひ陽成院やうぜんゐん御即位ごそくゐは、豊楽院ぶらくいんにてぞありける。元慶ぐわんきやう元年四月九日ここのかのひ事始ことはじめあッて、おなじき二年十月八日やうかのひにぞ、つくりいだされたりける。後冷泉院ごれいぜんゐん御宇ぎよう天喜てんき五年二月廿六日、又焼けにけり。治暦ぢりやく四年八月十四日じふしにち事始ことはじめありしかども、作りもいだされずして、後冷泉院ごれいぜんゐん崩御なりぬ。後三条院の御宇ぎよう延久えんきゆう四年しねん十五日作りいだして、文人ぶんじん詩を奉り、伶人れいじん楽を奏して、遷幸せんかうなし奉る。今は世すゑになッて、国の力も衰へたれば、其後はつひにつくられず。
(口語訳)
大極殿は、清和天皇の御代、貞観十八年に、初めて焼けたので、同十九年正月三日の陽成ようぜい天皇の御即位は、豊楽院で行われた。元慶がんぎょう元年四月九日、大極殿造り始めの儀式があって、同二年十月八日に完成された。後冷泉ごれいぜい天皇の御代、天喜五年二月二十六日に、また焼けてしまった。治暦じりゃく四年八月十四日、造り始めの儀式があったけれども、建造も始められないで、後冷泉天皇は亡くなられた。後三条天皇の御代、延久四年四月十五日に完成して、文人が詩を奉り、楽人が音楽を奏して、行幸をお迎え申し上げた。今は世も末になって、国力も衰えたので、その後はとうとう造営されない。