同四月廿八日、亥剋いのこくばかり、樋口富小路ひぐちとみのこうじより、火出で来て、辰巳たつみの風のはげしう吹きければ、京中おほく焼けにけり。大きなる車輪の如くなるほむらが、三町ぢやう五町ぢやうをへだてて、戌亥ゐぬいのかたへすぢかへにとびこえとびこえ焼けゆけば、おそろしなんどもおろかなり。或あるいは具平親王ぐへいしんわうの千種殿ちぐさどの、或は北野きたの天神の紅梅殿こうばいどの、橘逸勢きついつせいのはひ松殿、鬼殿おにどの、高松殿、鴨居殿かもいどの、東三条とうさんでう、冬嗣ふゆつぎのおとどの閑院殿かんゐんどの、昭宣公せうぜんこうの堀河殿ほりかはどの、是を始めて昔今むかしいまの名所卅余箇所かしよ、公卿くぎやうの家だにも十六箇所まで焼けにけり。其外そのほか殿上人、諸大夫しよだいぶの家々は記しるすに及ばず。はては大内たいだいにふきつけて、朱雀門しゆしやくもんより始めて、応天門おうでんもん、会昌門くわいしやうもん、大極殿だいごくでん、豊楽院ぶらくゐん、諸司しよし、八省はつしやう、朝所あいたんどころ、一時いちじがうちに、灰燼くわいじんの地とぞなりにける。家々の日記、代々の文書もんじよ、七珍万宝しつちんまんぽう、さながら塵灰ちりはひとなりぬ。其間そのあひだの費つひえいか計ばかりぞ。人の焼け死ぬる事数百人すひやくにん、牛馬ぎうばのたぐひは数を知らず。是ただごとにあらず、山王さんわうの御おんとがめとて、比叡山ひえいざんより大きなる猿さるどもが二三千おりくだり、手々てんでに松火まつびをともいて京中きやうぢゆうを焼くとぞ、人の夢には見えたりける。 |
(口語訳) |
同年四月二十八日、午後十時頃、樋口ひぐち富小路とみのこうじから火が起こり、東南の風が激しく吹いたので、京都中の多くが焼けた。大きい車輪のような炎が、町を三つも五つも隔てて、西北の方へ斜めに飛び越え飛び越え焼けていったので、恐ろしいどころではない。あるいは具平ぐへい親王の千種殿ちぐさどの、あるいは北野天神(菅原道真)の紅梅殿、橘逸勢きついつせいのはい松殿、鬼殿、高松殿、鴨居殿、東三条、冬嗣の大臣の閑院殿、昭宣公しょうぜんこう(基経)の堀河殿、これらを始めとして、昔と今の名所三十余か所、公卿の家でさえも十六か所まで焼けた。そのほか殿上人・諸大夫の家々は記すまでもない。しまいには内裏にも火が吹きつけて、朱雀門しゅじゃくもんから始まって応天門・会昌門かいしょうもん・大極殿・豊楽院ぶらくいん・諸役所・八省。朝所など、あっという間に焼け野原と化してしまった。家々の日記、代々の文書、七珍万宝が、すっかり塵灰となった。その損害の額はどのくらいであろうか。人が焼け死ぬことは数百人、牛馬の類に至っては数えきれない。これはただ事ではない。山王権現のお咎とがめというので、比叡山から大きい猿どもが二、三千匹降り下り、てんでにたいまつをともして京中を焼くのだと、夢で見た人もあった。 |
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大極殿だいごくでんは、清和せいわ天皇てんわうの御宇ぎよう、貞観ぢやうがん十八年に、始而はじめて焼けたりければ、同おなじき十九年正月三日みつかのひ、陽成院やうぜんゐんの御即位ごそくゐは、豊楽院ぶらくいんにてぞありける。元慶ぐわんきやう元年四月九日ここのかのひ、事始ことはじめあッて、同おなじき二年十月八日やうかのひにぞ、つくり出いだされたりける。後冷泉院ごれいぜんゐんの御宇ぎよう、天喜てんき五年二月廿六日、又焼けにけり。治暦ぢりやく四年八月十四日じふしにち、事始ことはじめありしかども、作りも出いだされずして、後冷泉院ごれいぜんゐん崩御なりぬ。後三条院の御宇ぎよう、延久えんきゆう四年しねん十五日作り出いだして、文人ぶんじん詩を奉り、伶人れいじん楽を奏して、遷幸せんかうなし奉る。今は世末すゑになッて、国の力も衰へたれば、其後は遂つひにつくられず。 |
(口語訳) |
大極殿は、清和天皇の御代、貞観十八年に、初めて焼けたので、同十九年正月三日の陽成ようぜい天皇の御即位は、豊楽院で行われた。元慶がんぎょう元年四月九日、大極殿造り始めの儀式があって、同二年十月八日に完成された。後冷泉ごれいぜい天皇の御代、天喜五年二月二十六日に、また焼けてしまった。治暦じりゃく四年八月十四日、造り始めの儀式があったけれども、建造も始められないで、後冷泉天皇は亡くなられた。後三条天皇の御代、延久四年四月十五日に完成して、文人が詩を奉り、楽人が音楽を奏して、行幸をお迎え申し上げた。今は世も末になって、国力も衰えたので、その後はとうとう造営されない。 |
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