~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/11/18 ぐわん だて (四)
「是が余りに心うければ、いかに申すとも、始終の事はかなふまじ。法花問答講ほつけもんだふこう一定いちぢやうあるべくは、三年みとせが命をのべて奉らむ。それを不足におぼしめさば、力及ばず」とて、山王あがらせ給ひけり。母うへは御立願ごりふぐわんの事、人にもかたらせ給はねば、たれもらしつらむとすこしもうたがふ方もましまさず。御心おんこころの内の事どもを、ありのままに御託宣ごたくせんありければ、心肝しんかんにそうてことにたッとくおぼしめし、泣く泣く申させ給ひけるは、「たと一日ひとひかたときにてさぶらふとも、ありがたうこそさぶらふべきに、まして三年みとせが命をのべて給はらむ事、しかるべうさぶらふ」とて、泣く泣く御下向おんげかうあり。いそぎ都へいらせ給ひて、殿下てんが御領ごりやう紀伊国きいのくに田中庄たなかのしやうと云ふ云ふ所を、八王子の御社おんやしろへ寄進せらる。それよりして法花問答講ほつけもんだふこう、今の世にいたるまで、毎日退転なしとぞ承る。
(口語訳)
「これがあまりに悲しいので、どんなに祈願しても、最後まで命を助けることはできない。法華問答講を必ずやるならば、三年命を延ばしてさしあげよう。それでも不足に思われるならば、しかたがない」と言って、山王は乗り移っていた巫女からお上がりになった。師通もろみちの母上は願を立てられた事について、誰にもお話にならなかったので、誰がご立願りゅうがんを漏らしたのだろうと、少しも疑うところもおありにならない。御心のうちの事をありのままご託宣があったので、心にしみて特に尊くお思いになり、泣く泣く申された。「たとえ一日片時でございましても、めったにない事ですのに、まして三年間命を延ばしてくださるというのは、ありがとうございます」と言って、泣く泣くお帰りになる。急いで都へ戻られ、関白のご領地紀伊きい国の田中庄たなかのしょうという所を、八王子権現のおやしろへご寄進なさる。それ以来、法華問答講を行い、現在に至るまで毎日怠らず続けていると聞いている。
かかりしほどに、後二条関白殿ごにでうのくわんぱくどの御病おんやまひかろませ給ひて、もとのごとくにならせ給ふ。上下よろこびあはれしほどに、三年みとせの過ぐるは夢なれや、永長えいちやう二年になりにけり。六月廿一日、又後二条関白殿、おんぐしのきはに、悪しき御瘡おんかさいでさせ給ひて、うちふさせ給ひしが、おなじき廿七日御年卅八にて、つひにかくれさせ給ひぬ。御心おんこころのたけさ、理のつよさ、さしもゆゆしき人にてましましけれども、まめやかに事の急になりしかば、御命を惜しませ給ひけるなり。誠に惜しかるべし、四十にだにもみたせ給はで、大殿に先立ち参らせ給ふこそ悲しけれ。必ずしも父を先立つべしと云ふ事はなけれどおも、生死しやうじのおきてにしたがふならひ、万徳円満まんどくゑんまん世尊せそん十地究竟じふぢくきやう大士だいじたちも、力及び給はぬ事どもなり。慈悲具足の山王さんわう利物りもつの方便にてましませば、御とがめなかるべしとも覚えず。
(口語訳)
そうしているうちに、後二条関白殿の御病は軽くなられて、もとのように丈夫になられた。誰もかもみんな喜んでおられたうちに、三年の年月が過ぎ去るのは夢のようで、永長二年になってしまった。六月二十一日、また後二条関白殿は御髪の生えぎわに、悪性のできものがおできになって、病に臥しておられたが、同月二十七日御年三十八で、とうとう亡くなられた。御心の勇猛さといい理性の強さといいあれほど偉い人でいらっしゃったが、現実に重体という危機が迫ったので、お命を惜しく思われたのであった。まことに惜しいことに、四十歳にさえお達しにならないで、大殿おおとのより先に亡くなられたのは悲しい事であった。必ずしも父より先に死ななければならぬという事はないが、生あるものは必ず死ぬという定めに従うのが世の常で、あらゆる徳を備えた釈尊、十地究竟じゆうじききょう菩薩ぼさつたちも、お力の及ばない事どもである。慈悲を備えた山王権現が、衆生を利益する方便としてなさることだから、罪を犯した者にお咎めがなかろうとも思われない。