~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/10/29 とう ぐう だち
さるほどに其年は諒闇りやうあんなりければ、御禊ごけい大嘗会だいじやうえもおこなはれず。おなじき十二月廿四日、建春門院けんしゆんもんいん其比そのころはいまだ東の御方おんかたと申しける御腹に、一院の宮ましましけるが、親王の宣旨せんじ下され給ふ。あくれば改元あッて、仁安にんあんかうす。おなじきとしの十月八日やうかのひ去年きよねん親王の宣旨かうぶらせ給ひし皇子、東三条とうさんでうにて、春宮とうぐうに立たせ給ふ。春宮とうぐうおん伯父六歳、主上しゆしやう御甥おんおひざい昭穆ぜうもくにあひかなはず。ただ寛和くわんわ二年に、一条院いちでういん七歳にて御即位、三条院さんでういん十一歳にて春宮に立たせ給ふ。先例なきにあらず。主上は二歳にて御ゆづりをうけさせ給ひ、わづかに五歳と申す二月十九日、東宮践祚せんそありしかば、位をすべらせ給ひて、新院しんゐんとぞ申しける。いまだ御元服げんぷくもなくして、太上天皇だいじやうてんわう尊号そんがうあり。漢家かんか、本朝、是やはじめならむ。
(口語訳)
さてその年は諒闇りょうあんだったので、御禊ごけい大嘗会だいじょうえも行われなかった。同年十二月二十四日に、建春門院、当時まだ東の御方と申した方がお生みになった後白河院の皇子がおられたが、その皇子に親王の宣旨せんじを下された。翌年に年号を改めて、仁安にんあんと号した。同年十月八日に、去年親王の宣旨をお受けになられた皇子が、東三条の御所で東宮にお立ちになる。東宮は天皇の御伯父で六歳、天皇は東宮の御甥で三歳、これは長幼の順序にあわない。ただし寛和かんわ二年に、一条院が七歳でご即位、三条院が十一歳で東宮にお立ちになった。先例がないわけではない。六条天皇は二歳で帝位をお受けになり、わずかに五歳という二月十九日に、東宮が皇位を継がれたので、位をお退きになって、新院と申した。まだ御元服もしないで、太上だいじょう天皇の尊号を受けられた。中国、わが国を通じて、これが最初だろう。
仁安にんあん三年三月廿日はつかのひ新帝しんてい大極殿だいこくでんにて御即位ごそくゐあり。此君の位につかせ給ひぬるは、いよいよ平家の栄花えいぐわとぞみえし。御母儀おんぼぎ建春門院けんしゅんもんゐんと申すは、平家の一門にてましますうへ、とりわき入道相国の北の方、二位殿にいどの御妹おんいもうとなり。また平大納言へいだいなごん時忠卿ときただきやうと申すも、女院によゐん御兄おんせうとなれば、内の御外戚ごぐわいせきなり。内外ないげにつけたる執権の臣とぞみえし。叙位、除目ぢもくと申すも、ひとへに此時忠卿のままなり。楊貴妃やうきひさいはひし時、楊国忠やうこくちゆうが栄えしがごとし。世のおぼえ、時のきら、めでたかりき。入道相国、天下てんかの大小事を宣ひあはせられければ、時の人、平関白へいくわんぱくとぞ申しける。
(口語訳)
仁安にんあん三年三月二十日に、新帝は大極殿で即位なさった。この君が位にいつきになった事はますますもって平家の栄華と思われた。御母の建春門院けんしゅんもんいんと申す方は、平家の一門でいらっしゃるうえに、とりわけ入道相国の北の方の二位殿の御妹である。また平大納言時忠ときただ 卿と申すのも、建春門院の御兄なので、天皇のご外戚である。内裏とそれ以外(清盛)と、内外両面に関係を持つ権力を握った臣下とみえた。叙位・ 除目じもくも、全くこの時忠卿の思うままである。楊貴妃ようきひ玄宗げんそうに寵愛され時めいていた時、楊国忠ようこくちゅうが栄えていたのと同じである。世間の人望、当時の繁栄はすばらしかった。入道相国は天下の大小事を相談なさったから、当時の人は時忠を平関白へいかんぱくと申した。