~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/10/26 きよ みず でら えん しやう
山門の大衆だいしゆ狼藉らうぜきをいたさば、手むかへすべきところに、心ぶかうねらふ方もやありけん、一詞ひとことばもいださず。御門みかどかくれさせ給ひては、心なき草木までも、うれへたる色にてこそあるべきに、此騒動のあさましさに、たかきもいやしきも肝魂きもたましひをうしなッて、四方しはうへ皆退散す。おなじき廿九日の午刻むまのこくばかり、山門の大衆、おびたたしう下洛げらくすと聞えしかば、武士、検非違使けびゐし西坂本にしざかもとせ向かつて防ぎけれども、事ともせず、おしやぶッて乱入す。何者の申しいだしたりけるやらむ、「一院いちゐん、山門の大衆だいしゆに仰せて、平家を追討せらるべし」と、きこえしほどに、軍兵ぐんびやう内裏に参じて、四方しほう陣頭じんどうを警固す。平氏へいじの一類、皆六波羅ろくはらあつまる。一院もいそぎ六波羅へ御幸ごかうなる。清盛公きよもりこう其比そのころいまだ大納言だいなごんにておはしけるが、大きに恐れさわがれけり。小松殿こまつどの、「なにによッてか、唯今ただいまさる事あるべき」と、しづめられけれども、上下ののしりさわぐ事おびたたし。山門の大衆だいしゆ六波羅へは寄せずして、すぞろなる清水寺せいすいじにおし寄せて、仏閣僧坊一宇いちうものこさず焼きはらふ。是はさんぬる御葬送ごさうそうの、会稽くわいけいも恥をきよめんがためとぞ聞えし。清水寺は興福寺こうぶくじの末寺なるによッてなり。清水寺焼けたりけるあした、「や、観音火坑くわきやう変成池へんじやうちはいかに」と札に書いて、大門だいもんの前にたてたりければ、次の日又、「歴劫りやくこふ不思議力及ばず」と、かへしの札をぞうッたりける。衆徒しゆとかへりのぼりにければ、一院いちゐん六波羅より還御くわんぎよなる。重盛卿しげもりのきやうばかりぞ御供に参られける。父のきやうは参られず。なほ用心の為とぞ聞えし。重盛卿御おくりより、かへられたりければ、父の大納言宣ひけるは、「さても一院の御幸ごかうこそ、大きにおそれおぼゆれ。かねても思食おぼしめしより仰せらるる旨のあればこそ、かうはきこゆらめ。それにもうちとけ給ふまじ」と宣へば、重盛卿、申されける、「此事ゆめゆめおんけしきにも御ことばにもいださせ給ふべからず。人に心づけがほに、なかなかあしき御事おんことなり。それにつけても、叡慮えいりよそむき給はで、人の為に御情おんなさけをほどこさせましばさば、神明三宝しんめいさんぼう加護あるべし。さらむにとッては、御身おんみおそれ候まじ」とて、たたければ、「重盛卿しげもりきやうはゆゆしく大様おほやう なるものかな」とぞ、父の卿も宣ひける。
一院いちゐん還御くわんぎよの後、御前ごぜんにうとからぬ近習きんじゆ者達しやたち、あまた候はれけるに、「さても不思議の事を申しいだしたるものかな。つゆもおぼしめしよらぬものを」と仰せければ、院中ゐんじゆうのきり者に、西光さいくわう法師ほうしといふ者あり。境節をりふし御前ごぜんちかう候ひけるが、「『天に口なし、にんをもッていはせよ」と申す。平家をもつてのほかに過分に候あひだ、天のおんばからひにや」とぞ申しける。人々、「此事よしなし。壁に耳あり、おそろしおそろし」とぞ申しあはれける。
(口語訳)
ここでもし延暦寺えんりゃくじの衆徒が乱暴をするなら、興福寺方も手向かいすべきところだが、延暦寺の方に思慮深く考える事があったのだろうか、一言もしゃべらなかった。天皇がおかくれになって、心のない草木までも悲しみの様子であるべきなのに、この騒動の見苦しさに、身分の高い者も賤しい者も非常にびっくりして、四方へみんな退散した。同じ七月二十九日の正午頃、延暦寺の衆徒が大勢京都に降りて来るとうわさがたったので、武士・検非違使が西坂本にせ向かって防いだが、問題ともせず、押し破って京都に乱入した。誰が言いだしたのであろうか、「後白河院が延暦寺の衆徒におっしゃって、平家を追討なさるだろう」と噂がたったので、軍兵が内裏に参上して、四方の宮門近くにある衛府えふ詰所つめしょを警備した。平氏の一族はみな六波羅ろくはらへ馳せ集まる。後白河院も急いで六波羅へ御幸なさる。清盛公は当時まだ大納言でいられたが、大いに恐れ騒がれた。小松殿は、「なんで今そんなことがあろうか」と言って、おしずめになったが、身分の上の者も下の者も大変な騒ぎである。延暦寺の衆徒は、六波羅へ押し寄せないで、何という攻める理由のない清水寺に押し寄せて、仏閣僧房を一棟も残さず全部焼き払った。これは以前のご葬送の夜の恥をすすぐためということであった。清水寺は興福寺の末寺だからである。 清水寺は焼けた翌朝に、「やあ、火坑変成池かきょうへんじょうちはいかに」と札に書いて、大門の前に立てたところ、次の日にまた、「歴劫不思議りゃっこうふしぎ力及ばず」と返答の札を打ちつけた。山門の僧徒が比叡山に帰ってしまったので、後白河院は六波羅からお帰りになった。重盛卿だけがお供として行かれた。父の清盛卿は行かれなかった。まだ用心しているためかと評判であった。重盛卿が後白河院をお送りしてからお帰りになったので、父の大納言 (清盛) がおっしゃるには、「それにしても後白河院の御幸はたいそうおそれ多い事と思われる。前々から平氏を討つように思っておられ、言われている事があるからこそ、こういううわさがたったのだろう。お前も心を許してはいけないぞ」と言われると、重盛卿が申された。「この事はかっしてご様子にも御ことばにもお出しになってはいけません。人に気づかせるようなそぶりをみせては、かえってよくありません。それにつけても、天皇のお考えにおそむきにならないで、人のために、お情けをお施しになれば、神仏のおまもりがあるはずです。そういうことになったら、父上が恐れることはありますまい」と申して、おたちになったので、「重盛卿はひどく大様おおようなものだ」と、父の清盛卿も言われた。
後白河院は御所にお帰りになってから、御前にいつもお側近くに仕えている近臣たちが、大勢伺候しこうしておられた所で、「それにしても意外な事を申しだしたものだなあ。少しも考えていないにに」と言われると、院の御所の切れ者に西光さいこう法師という者がいた。ちょうどその時御前近くに控えていたが、「『天に口なし、人をもって言わせよ』と、申します。平家が非常に身分不相応に出過ぎますので、天の御はからいなのでしょう」と申した。その場にいた人々は、「そんなことを言ってもむだだ。壁に耳あり、どこで誰が聞いているかも知ればい、恐ろしい、恐ろしい」と口々に言い合っておられた。