~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/10/24 がく うち ろん
さるほどえいまん万元年の春のころより、主上しゆしやう御不豫ごふよの御事ときこえさえ給ひしが、夏のはじめになりしかば、事のほからせ給ふ。
是によって大蔵大輔おおくらのたいふ伊吉兼盛いきのかねもりが娘の腹に、今上こんじやう一宮いちのみやの二歳にならせ給ふがましましけるを、太子に立て参らせ給ふべしと、聞えしほどに、おなじき六月廿五日、にはかに親王の宣旨せんじ下されて、やがて其夜そのよ受禅じゆぜんありしかば、天下てんかなにとなうあわてたるさまなり。其時の有職いうしよくの人々申しあはれけるは、本朝に童帝とうたいの例を尋ぬれば、清和せいわ天皇てんわう九歳にして、文徳もんどく天皇てんわう御禅おんゆづりを受けさせ給ふ。是はかの周公旦しうこうたん成王せいわうにかはり、南面なんめんにして一日万機いちじつばんきまつりごとを治め給ひしになぞらへて、外祖ぐわいそう忠仁公ちゆうじんこう幼主ゆうしゆ扶持ふちし給へり。是ぞ摂政のはじめなる。鳥羽院とばのゐん五歳、近衛院こんゑのゐん三歳にて、践祚せんそあり。かれをこそ、いつしかなりと申ししに、是は二歳にならせ給ふ。先例なし。物さわがしともおろかなり。
(口語訳)
そのうちに、永万えいまん 永万えいまん元年の春頃から、主上はご病気の御事というおうわさが立ったが、夏の初めになった時に、意外に重体になられた。このために、大蔵大輔伊吉兼盛いきのかねもりの娘の腹に、二条天皇の一の宮で二歳になられた皇子がいらっしゃったが、その皇子を、皇太子にお立て申すべきだと、うわさしていたうちに、同年の六月二十五日に、にわかに親王の宣旨せんじを下されて、すぐにその夜天皇の位につかれたので、天下はなんとなく落ち着かない様子である。その時の有職故実しゅうしょくこじつに詳しい人々が互いに申されたことは、わが国で幼少の天皇の例を調べると、清和天皇は九歳で、文徳もんとく天皇から皇位を譲り受けられた。この時はあの周公旦しゆこうたん成王せいおうに代わって、天子の位についてあらゆる政務を治められた事にならって、外祖父の忠仁公が幼君主をお助けになった。これが摂政の始めである。鳥羽とば院は五歳、近衛このえ院は三歳で皇位を継承した。それでさえも早すぎると申したのに、これは二歳で天皇におなりになった。先例はない。気ぜわしいなどといっても十分言いつくせないほどである。
さるほどに、おなじき七月廿七日、上皇しやうくわうつひに崩御なりぬ。御とし廿三、つぼめる花の散れるがごとし。玉のすだれにしきちやうのうち、皆御涙にむせばせ給ふ。やがて其夜そのよ香隆寺かうりゆうじのうしとら、蓮台野れんだいのの奥、船岡山ふなおかやまにをさめ奉る。御葬送ごそうそうの時、延暦えんりやく興福こうぶく両寺りやうじ大衆だいしゆがくうちろんと云ふ事しいだして、たがひ狼藉らうぜきに及ぶ。一天の君、崩御なって後、御墓所ごむしよへわたし奉る時の作法は、南北二京の大衆だいしゆ、ことごとく供奉ぐぶして、御墓所ごむしよのめぐりに、わが寺々の額をうつ事あり。まづ聖武しやうむ天皇てんわう御願ごぐわん、あらそふべき寺なければ、東大寺とうだいじの額をうつ。次に淡海公たんかいこうの御願とて、興福寺こうぶくじの額をうつ。北京ほくきやうには興福寺にむかへて、延暦寺えんりやくじの額をうつ。次に天武天皇てんむてんわうの御願、教待けうだい和尚くわしやう智証ちしよう大師だいし草創さうさうとて、園城寺をんじやうじの額をうつ。しかるを山門の大衆だいしゆ、いかが思ひけん、先例をそむいて、東大寺の次、興福寺のうへに、延暦寺の額をうつあひだ、南都なんとの大衆、とやせまし、かやうせましと僉議せんぎするところに、興福寺こうぶくじ西金堂衆さいこんだうじゆ観音房くわんおんおう勢至房せいしぼうとてきこえたる大悪僧だいあくそう二人ににんありけり。観音房は、黒糸縅くろいとおどしの腹巻に、しら長刀なぎなた、くきみじかきにとり、勢至房は、萌黄縅もえぎおどしの腹巻に、黒漆こくしつ大太刀おほだちもッて、二人ににんつッと走り出て、延暦寺の額をきッておとし、散々さんざんにうちわり、「うれしや水、なるは滝の水、日はてるともたえずとうたへ」とはやしつつ、南都の衆徒しゆとの中へぞ入りにける。
(口語訳)
さて、同年の七月二十七日、二条天皇はとうとうお亡くなりになった。御年は二十三、つぼみの花が散ったようである。玉簾たますだれにしきのたれぎぬの内にいる皇妃たちは、みな御涙にむせばれる。すぐその夜香隆寺の東北で、蓮台野の奥の船岡山に御遺体をお納めした。ご葬送の時、延暦・興福の両寺の衆徒が額打がくうち論ということをしはじめて互に乱暴をはたらいた。
天子がお亡くなりになったあと、御遺体を御墓所にお移し申し上げる時の作法には、奈良と京都の僧侶たちがことごとくお供をして、御墓所の周囲にそれぞれ自分の寺の額を掛ける事がある。まず東大寺は聖武しょうむ天皇の御願寺で、先を争うべき寺がないので、東大寺の額を掛ける。次に淡海公の御願寺というので、興福寺の額を掛ける。京都方では興福寺に相対して延暦寺えんりゃくじの額を掛ける。次に天武天皇の御願寺で、教待きょうだい和尚・智証ちしょう大師の草創というので園城寺おんじょうじの額を掛ける。これが例である。ところが延暦寺の衆徒はどう思ったか、先例に背いて、東大寺の次、興福寺より先に延暦寺の額を掛けたので、奈良の衆徒がこうしようかああしようかと相談している際に、興福寺の西金堂衆さいこんどうしゅうの観音房・勢至房せいしぼうといって評判の大悪僧が二人いた。観音房は黒糸縅くろいとおどしの腹巻をつけ、白木しらきつか長刀なぎなた茎短くきみじかに持ち、勢至房は萌黄縅もえぎおどしの腹巻に、黒い漆塗りの大太刀を持って、二人がつつっと走り出して、延暦寺の額を切り落とし、めちゃくちゃにウ打ち割って、「うれしや水、なるは滝の水、日はてるともたえずうたへ」とはやしながら、興福寺の衆徒の中へ入ってしまった。