かくて清盛公、仁安三年十一月十一日、年五十一にて、病やまひにおかされ、存命ぞんめい
の為ために忽たちまちに出家入道す。法名は浄海じやうかいとこそなのられけれ。其そのしるしにや、宿病しゆくびやうたちどころにいえて、天命を全うす。人のしたがひつく事、吹く風の草木くさきをなびかすがごとし。世のあまねく仰げる事、ふる雨の国土をうるほすに同じ。
六波羅殿ろくはらどのの御ご一家いつけの公達きんだちといひてンしかば、花族くわぞくも英雄えいようも、面おもてをむかへ、肩をならぶる人なし。されば入道にふだう相国しやうこくのこうじと、平大納言へいだいなごん時忠ときただ卿きやう
の言ひけるは、「此一門にあらざらむ人は、皆人非人にんぴにんなるべし」とぞ宣ひける。かかりしかば、いかなる人も、相構へて其そのゆかりに、むすぼれほむとぞしける。衣文えもんのかきやう、烏帽子えぼしのためやうよりはじめて、何事も六波羅様ろくはらやう
といひてンげれば、一天四海の人、皆是をまなぶ。 |
(口語訳) |
こうして清盛公は、仁安にんあん三年十一月十一日、年五十一で病気のかかり、生きながらえるために、急に出家入道した。法名は浄海じょうかいと名乗られた。そのしるしであろうか、年来の病気がたちどころになおって、天寿を全うすることが出来た。人が従いつく事は、吹く風が草木をなびかすかのようである。世人がみな尊敬した事は、降る雨が国土を潤すのと同じである。六波羅殿ろくはらどののご一家の公達きんだちといったならば、花族かそくも英雄えいようも、顔を合わせ、肩を並べる人もいない。だから、入道相国の小舅こじゅうとの平大納言時忠ときただ卿が言われるには、「この平家一門でない人は、みな人非人にんぴにんであろう」と言われた。それだからどんな人も、必ず平家の縁者に姻戚関係を持とうとした。衣紋えもんのとり方、烏帽子えぼしのため方をはじめ、何事も六波羅風といったなら、天下の人はすべてこれをまねた。 |
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又いかなる賢王賢主の御おん政まつりごとも、摂政せつしやう関白かんぱくの御成敗ごせいばい
も、世にあまたされたるいたづら者なンどの、人の聞かぬ所にて、なにとなうそしり傾け申す事は、常の習ならひなれども、此禅門ぜんもん世ざかりのほどは、聊いささかいるかせにも申す者なし。其故そのゆゑは、入道相国のはかりことに、十四五六の童部わらんべを、三百人そろへて、髪をかぶろにきりまはし、赤き直垂ひたたれを着せて、召しつかはれけるが、京中にみちみちて、往反わうへんしけり。おのづから平家の事あしざまに申す者あれば、一人いちにん聞きき出いださぬほどこそありけれ、余党よたうに触ふれ廻めぐらして、其家に乱入し、資財雑具ざふぐを追捕ついふくし、其奴そのやつを搦からめとッて、六波羅へゐて参る。されば目に見、心に知るといへど、詞ことばにあらはれて申す者なし。六波羅殿の禿かぶろといひてンしかば、道を過ぐる馬むま車くるまもよぎてぞとほりける。禁門を出入すといへども、姓名しやうみやうを尋ねらるるに及ばず、京師けいしの長吏ちやうり、これが為ために目を側そばむとみえたり。 |
(口語訳) |
またどんなにすぐれた賢王・賢主のご政治でも、摂政関白のおとりはからいも、世間から見捨てられたやくざ者などが、人の聞いていない所で、なんということなく悪口を言い批難するのは、世間によくあることだが、この清盛の勢い盛んな頃は、少しも粗略に申す者がなかった。そのわけは、入道相国のはかりごととして、十四、五、六の童わらわを三百人揃そろえて、髪を禿かぶろに回りを切って、赤い直垂ひたたれを着せて、召し使われたが、その童が京都中に満ちあふれ往来していた。たまたま平家の事を悪く申す者があると、それを聞き出さないうちはとにかく一人でも聞きつけると、ほかの仲間にふれまわして、その家に乱入し、家財道具を没収し、その男を縛りあげて、六波羅へ連れて来る。だから平家の横暴を誰も目に見、心に知っているのだけれども、口に出して申す者はない。六波羅殿の禿かぶろといったならば、道を通る馬や車も、よけて通った。「宮門を出入りするけれども、警衛の武士に、姓名を尋ねられる事もない。京師けいしの長吏はこのために、目をそらして見ても見ぬふりをする」と長恨歌伝ちょうごんかでんに見えるが、全くそのように見えた。 |
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