其子どもは、諸衛の佐すけになる。昇殿せしに、殿上てんじやうのまじはりを人きらふに及ばず。其比そのころ忠盛ただもり、備前国びぜんのくにより都へのぼりたりけるに、鳥羽院とばのいん、「明石浦あかしのうらはいかに」と御尋ねありければ、 |
有明ありあけの 月も明石あかしの うら風に 浪なみばかりこそ 寄るとみえしか |
|
と申したりければ、御感ぎよかんありけり。此歌は、金葉集きんえふしふにぞ入れられける。忠盛又仙洞せんとうに最愛の女房にようばうをもッて、かよはれけるが、ある時、其女房の局つぼねに、妻に月出いだしたる扇を忘れて出でられたりければ、かたへの女房たち、「是はいづくよりの月影ぞや、出所いでどころおぼつかなし」なンど、わらひあはれければ、彼かの女房、 |
雲井くもゐより ただもりきたる 月なれば おぼろけにては いはじとぞ思ふ |
|
とよみたりければ、いとどあさからずぞ思はれける。薩摩守さつまのかみ忠盛ただもりの母是これなり。似るを友とかやの風情ふぜいに、忠盛もすいたりければ、彼かの女房も優いうなりけり。 |
(口語訳) |
忠盛の子供は、諸衛しょえ
の佐すけになった。そして昇殿したが、もう殿上の交際を人が嫌きらう事はなかった。その頃、忠盛は備前国から上京したが、その際鳥羽とば院が、「明石あかしの浦はどうだった」とお尋ねになったので、忠盛は、 |
明石の浦では、明け方の残月も明るく光を放って真昼のようで、海岸を吹きわたる風に波だけが寄ると見えた |
|
と申したところ、鳥羽院は御感心になった。この歌は金葉集きんようしゅうに入れられた。忠盛はまた、院の御所に最愛の女房がいて、通って行かれたが、ある時その女房の部屋に、端に月を描いた扇を、忘れて帰られたので、側の仲間の女房たちが、「これはどこかの月でしょう、出所がわからなくて気がかりですよ」などといって、笑い合っておられた。そこでその女房は、 |
雲間からただ漏れてきた月だから、いいかげんなことでは、その出所を言うまいと思う |
|
と詠よんだので、忠盛は、今までよりもいっそう深く愛された。薩摩守忠度ただのりの母はこの女房である。似ている者を友とするとかいうような趣で、忠盛も風流であったので、その女房も優がであった。 |
|
かくて忠盛、刑部卿ぎやうぶきやうになッて、仁平にんぺい三年正月十五日、歳とし五十八にてうせにき。清盛きよもり嫡男ちやくなんたるによッて其跡をつぐ。保元ほうげん元年七月に、宇治うぢの左府代さふよを乱り給ひし時、安芸守あきのかみとて、御方みかたにて勲功ありしかば、播磨守はりまのかみにうつッて、同おなじき三年太宰大弐だざいのだいにになる。
次に平治へいぢ元年十二月、信頼卿のぶよりきやうが謀反むほんの時、御方みかたに賊徒をうちたひらげ、「勲功一つにあらず、恩賞是重かるべし」とて、次の年正じやう三位ざんみに叙せられ、うちつづき宰相、衛府督ゑふのかみ、検非違使別当けびゐしのべつたう、中納言ちやうなごん、大納言だいなごんに経へあがッて、剰あまつさへ丞相しやうじやうの位にいたり、左右さうを経ずして内大臣ないだいじんより太政大臣従だいじやうだいじん従一位じゆいちゐにあがる。大将だいしやうにあらねども、兵仗ひやうぢやうを給はつて随身ずいじんを召し具す。牛車ぎつしや輦車れんじやの宣旨せんじを蒙かうぶつて、乗りながら宮中を出入す。偏ひとへに執政の臣のごとし。「太政大臣は、一人いちじんに師範しはんとして、四海に儀けいせり。国ををさめ道を論じ、陰陽いんやうをやはらげをさむ。其人そのひとにあらずは即すなはちかけよ」といへり。されば則闕そくけつの官とも名付けたり。其人ならではけがすべき官ならねども、一天四海を、掌たなごころの内ににぎられしゆへは、子細しさいに及ばず。 |
(口語訳) |
こうして忠盛が刑部卿ぎょうぶきょうになって、仁平にんぴょう三年正月十五日に、五十八歳で死んだ。
清盛は嫡男であるから、その跡を継いだ。保元元年七月に、宇治左大臣頼長よりながが世を乱された時、安芸守あきのかみとして天皇のお味方をして勲功があったので、播磨守はりまのかみに移って、保元三年に太宰大弐になった。次いで平治元年十二月に、藤原信頼のぶより卿が謀反を起こした時、天皇のお味方で賊の連中を討ち平らげ、「勲功は一回だけではない、重く恩賞を与えるべきだ」というので、翌年正三位に叙せられ、引き続き宰相、衛府督、検非違使別当けびいしのべっとう、中納言、大納言と上がっていき、その丞相しょうじょうの位に至り、左右の大臣を経ないで、内大臣からすぐに太政大臣・従一位じゅいちいに上がった。大将ではないが、武器を持った兵を連れることを許されて随身ずいしんを召し連れていた。牛車ぎっしゃ・輦車れんしゃに乗ることを許すという宣旨せんじをいただいて、車に乗ったままで宮中を出入りした。全く政務を執とる重臣、摂政関白と同様である。「太政大臣は、天下に対する師範として、天下に模範を示すものであり、国を治め人の道を論じ、陰陽を和合させて治めるものである。適任者でないのなら、空席にせよ」といっている。それゆえに太政大臣を則闕そっけつの官ともよんでいる。その資格のある人でなくてはその職をけがしてはならぬ官職であるが、清盛が天下を掌中しょうちゅうにおおさめになった以上、清盛が太政大臣に任じたことについて、文句を言う者もなかった。 |
|
平家かように繁昌はんじやうせられけるも、熊野権現くまののごんげんの御利生ごりしやうとぞきこえし。其故そのゆえは、古いにしへ清盛公きよもりこう、いまだ安芸守あきのかみたりし時、伊勢いせの海より船にて熊野へ参られけるに、大きなる鱸すずきの船に躍をど
り入いりたりけるを、先達せんだつ申しけるは、「是は権現の御利生なり。いそぎ参るべし」と申しければ、清盛宣ひけるは、「昔周しうの武王ぶわうの船にこそ、白魚はくぎよは躍り入りたりけるなれ。是吉事きちじなり」とて、さばかり十戒じつかいをたもち、精進潔斎の道なれども、調味して、家子いへのこ侍共さぶらひどもに食くはせられけり。其故にや、吉事きちじのみうちつづいて、太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途くわんども、龍りようの雲に昇るよりは、猶なほすみやかなり。九代くだいの先蹤せんじようをこえ給ふこそ目出たけれ。 |
(口語訳) |
平家がこのように繁栄なさったのも、熊野権現のご利益りやくということであった。
そのわけは、昔清盛公がまだ安芸守あきのかみであった時、伊勢の海から船で熊野へ参詣されたが、大きな鱸すずきが船の中に躍おどり込んできたのを、先導の修験者が申すには、「これは熊野権現のご利益りやくです。急いでお食べなさい」と申したので、清盛が言われるには、「昔、周の武王の船に、白魚が躍り込んだそうだ。これは吉事である」といって、あれほど十戒を守り、精進潔斎を続けた道中ではあるが、料理して、家の子、侍どもに食べさせられた。そのせいか、以後、吉事ばかり続いて、太政大臣と言う極位にまでお上りになった。子孫の官位の昇進も、龍が雲に登るよりは、いっそう速やかである。こうして先祖九代の先例をお越えになったのは、まことにめでたいことであった。 |
|