~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/12/07 梗 概
祇 園 精 舎
いかなる者も、諸行無常・盛者必衰の理からはのがれ得ない。古今内外の例の中でも、最大の例は清盛である。平氏は桓武天皇の後胤だが、正盛までは、諸国の受領でしかなかった。
殿 上 闇 討
鳥羽院の時、平忠盛が初めて昇殿を許された。殿上人たちはこれをそねんで節会の際に闇討にしようとし、さまざまのいやだらせをしたが、忠盛の機転と、忠実な郎等のおかげで難を免れ、かえって院に認められた。
忠盛は文事に通じた風流人でもあった。その子清盛は、保元・平治の乱に勲功を立てて、めざましい精進を遂げて太政大臣にまでなった。これは熊野権現のご利生だという。かつて熊野参詣の途中、鱸が清盛の船に踊り入るとういう吉兆があった。
禿 髪
清盛は五十一歳で出家したが、ますます繁栄し、世はすべて平氏に迎合した。清盛は異様な身なりの若者三百人を市中に放って、密告させ、反平氏の動きを封じた。
吾 身 栄 花
清盛のみならっず一族は繁栄し、子息・娘もそれぞれに栄華を極めた。日本六十六か国中、平氏の支配は過半に及んだ。
祇 王
清盛は横暴なふるまいばかりした。たとえば寵愛した白拍子祇王をたちまち仏御前にかえ、さらに祇王の心を踏みにじった。祇王は母や妹とともに出家して隠栖したが、仏御前も世の無常を悟って出家し、四人ともに仏に仕えて、やがて往生したという。
二 代 后
世上は不穏な動きが多く、院、内の対立もあった。二条天皇は、故近衛天皇の后を無理に入内させ、自分の后としたが、永万元(1165)年、病に臥し、わずか二歳の六条天皇に譲位する。
額 打 論
同年七月、二条院崩御。その御墓所の周囲に寺々の額を打つ時、順序を争って、興福寺・延暦寺の間で衝突が起こる。
清 水 寺 炎 上
山門の大衆は興福寺の末寺たる清水寺を焼き払う。世間には、後白河法皇が山門に平家追討を命じたという噂が流れる。
東 宮 立
仁安元(1166)十月、高倉親王が東宮に立つ。天皇は三歳、東宮は六歳。仁安三年三月に東宮が即位する。異常な事ばかりであるが、新帝の母建春門院は平氏の一族なので、平氏の勢いはなすなす盛んである。
殿 下 乗 合
嘉応二(1170)年十月、重盛の次男資盛が、摂政基房の車ともめ事を起こし、清盛は仕返しに武士を使って基房の一行に乱暴させる。重盛は驚き、関係しや者を叱責する。これが世の乱れの始まりであった。
鹿 谷
嘉応三年正月、天皇御元服、清盛の娘徳子が入内する。その頃、大将の職があき、実定・兼雅・成親らが望んだが、清盛の子重盛が左大将、宗盛が右大将になる。成親はこれを恨み、鹿谷山荘で、時には法皇をも迎えて、俊寛・西光・康頼らとともに、平氏討滅の密議をこらす。
俊 寛 沙 汰 鵜 川 軍
法皇のお気に入りであった西光の子師高は加賀守、師経は目代になったが、安元二(1176)年、白山の末寺鵜川寺の僧と衝突する。僧徒は白山の神輿をかついで、比叡山に訴える。
願 立
山門の大衆は、師高・師経を罰すべき旨奏上するが、裁断が下りない。昔から、山門の御輿振は軽視できぬもので、嘉保二(1095)年、関白師通が山王の怒りにふれ、母の祈りによりやっと三年延命されたことがある。
御 輿 振
山門の大衆は、ついに神輿を振り上げて入京する。防ぎ役の源頼政は機転を利かせてその衝をのがれるが、重盛指揮下の武士によって、神輿に矢が射立てられる。
内 裏 炎 上
その後も騒動はやまず、結局、師高・師経らは処分される。安元三年四月二十八日、市中は大火にあい、内裏も焼失する。この火は、山王の怒りによるものと噂された。