~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
新 妻 た ち
 
2018/07/20日
巴 (四)
確かなことはわからないが、木曽勢でも鎌倉勢でも、大挙攻め上って来る時は、その中に女を交えていたことは考えられる。道の途中でついて来た遊女、あるいは故郷から来た女たち。いずれも、この集団について来れば飯の食いはぐれはないという計算からついて来た連中だし、荒くれ男たちも、陣中の性のなぐさみものとして、こうした女の存在を必要としたに違いない。
これらの女群は、都人にとっては珍しい存在であり、これが木曽義仲に結びつけて語られたのが巴である。だから、木曽義仲が異邦人であったように、巴もまた、都人とはまるきり異質の勇猛な女武者として描かれたのではないかと思う。私は巴という人物が実在したかどうかについては疑問を持つが、そうした女群の存在は認めるし、また巴が勇婦として描かれてゆく過程は理解できるような気がする。
ところで『平家』は巴が東国に逃れたということだけを書いて、その後の消息を語っていないために、いろいろ伝説が生まれた。有名なのは鎌倉勢に生け捕られて鎌倉へ連れて行かれ、輪田義盛と再婚し、朝比奈三郎義秀と呼ばれる豪勇の武者を産んだという説である。
が、これは当時のもう一人の勇婦、板額はんがくの話とないまぜになって生まれた伝説だ。少し後になるが、越後の豪族の城氏が反乱を起こし、鎌倉勢によって鎮圧されるという事件があった。この時中心人物だった城資盛の叔母に板額という女性がいて、鎧を着て強弓を引き、鎌倉勢をさんざん悩ませた。この板額が生け捕りになって鎌倉へ連れて来られた時、御家人の一人、浅利与一義遠という者が、自分に預からせてくれと申し出た。その理由をたずねると、
「この女と結婚して、剛勇の子をもうけ、幕府のお役に立ちたい」
と答えた。これを聞いて「いかに何でも物好きな」と人々は笑いころげた、と『吾妻鑑』は書いているが、どうやら、この話が巴の後日譚ごじつたんとなってしまったらしいのだ。
ちなみに彼女の相手となったといわれる和田義盛は、鎌倉の侍所さむらいどころ の別当だから、いわば陸軍大臣といった重要な地位を占める人物。のちに実朝の時代になって反乱を起こし、北条氏に滅ぼされる。このとき、彼の子朝比奈三郎は奮戦し、遂に誰にも捉えられずに行方をくらました。この朝比奈三郎は、以前から大力、剛の者という評判が高かったので巴と結びつけられたのであろう。
なお木曽義仲には義高という息子がいる。かつて、頼朝と協定を結んだ時、義仲はこの義高を人質として鎌倉へあずけた。義高は頼朝の長女大姫の許嫁いいなすけとして育てられたが、父親どうしの関係が悪化し、義仲が鎌倉勢に討たれると、彼も殺されてしまう。この時義高は木曽への逃亡を企て失敗し、埼玉県入間川のあたりで殺されるのだが、この義高が巴の子供かどうかということは、あまり確証がない。巴が実在の人物だとして、しかも義仲の乳母の夫中原兼遠の娘だとすれば、木曽きっての豪族の娘でもあるし、当時の義仲の正妻になる可能性が強いから、したがって義高もその子と考えてもいいのではないか。
が、『吾妻鑑』の中では、義高の殺されることに関連して巴の事は何一つ語られていないから、そのあたりのことは依然として謎である。むしろ巴の場合には、先に述べたように実在性を問いつめるよりも、『平家』の物語の中でいかに描かれているかを中心に見てゆくべきで、後日譚の詮索じたいが無意味なのではないだろうか。