~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
新 妻 た ち
 
2018/07/12
小 宰 相 (四)
北の方は乳母の言葉を聞き
「いえ、大丈夫よ。お前、私の身になって考えてくれれば、この悲しみがわかるだろうけれど、こんなときには、そんなふうに考えてしまうものなのよ。まさか、ほんとに死ぬものですか。どうか心配しないでおくれ。もし本気で死ぬ決心をしたときは必ずお前に打ち明けるからね。さあ、夜も更けたからおやすみ」
といってその場をとりつくろった。
が、これは、あくまでも乳母をなだめるための言葉だった。小宰相は乳母の寝入るのを見すますと、そっと床を抜け出して舟ばたに出た。大海の中を漂う舟であってみれば、どこが西にあたるのか方角もわからない。が、折ふし傾きかけた月を見て、その方角を西と思いさだめ、しずかに念仏百遍くりかえし、
「南無、阿弥陀あみだ如来にょらい、一切の衆生しゅじょうをお助け下さるという御本願通りに浄土へおみちびきくださって、私たち夫婦を極楽の同じはすの葉の上へお迎えとり下さいませ」
祈りとともに、海に身を沈めてしまった。
頃は夜半すぎ、人々は戦いの疲れに寝入って気づかなかったが、ただ一人起きていたかじ取が、それを見ていた。
「あっ、あれは何だ、美しい女の方が入水じゅすいなさったぞ」
大騒ぎになった。乳母の女房もその声に眼をさまして、隣をまさぐると、その人はいない。
「あっ、やっぱり・・・・北の方さまが」
人々は水にもぐって行方をさがしたが、ちょうど春先のおぼろにかすむ夜のこととて、なかなかみつからない。やっと探し当てた時、北の方は、すでにこの世の人ではなくなっていた。
絹の下着を二枚かさね、白いはかまをつけた死装束も髪もぐっしょり濡れたその姿にとりついて乳母は泣きさわぐ。
「何で、私をお供に連れて行って下さらなかったのです。北の方さま? どうかもう一度、ひと言おっしゃって!」
が、北の方の口からは遂に一言も洩れなかった。助けあげられた時は、かすかに息があるようだったが、それもすっかり絶え果てた。
とこうするうちに夜はしだいに明けはじめたので、このままにしておくこともできず、海に葬ることにした。浮き上がって見苦しい姿をさらさないようにという心づかいから、亡き夫の着背きせながよろい(鎧の草摺くさずりの長いもので、大将格の人の着るもの)をつけて、海に沈めてやった。
瀬戸内海の春の曙の中で行われた、凄惨せいさんにしてかつ美しい海の鎮魂曲クレイエムである。白い死装束をつけた髪の長い女人の屍体が、夫の鎧をつけて、静かに海に葬られてゆく・・・・おだやかな春のあけぼのにおよそふさわしくないこの葬送劇は、おそらく無言のうちに行われたであろう。舟もおぼろ、人もおぼろ、その中で行われた悲しみのパントマイム ──『平家物語』の中でも最も胸に迫るドラマチックな光景の一つである。
この後に『平家』は「忠心は二君じくんにつかへず、貞女は二夫じふにまみえずとも、かやうの事をやまうすべき」と付け加えているが、こんなことは、むしろ蛇足だそくである。
女の生き方として見るならば、この北の方については、いろいろのことがいえるだろう。
妊娠時の興奮による発作的な自殺。
今まで仕合せだった彼女が、襲いかかって来た不幸を受け止めきれず、逃避を選んだ。
子供を生んで育てるべきだったのに弱すぎる。
が、そういう読み方はしない方がよいのではないか。『平家』がここで語りたかったのは、戦いで夫を失ったある若い妻の悲しみについてである。彼女は生きていられないほどの衝撃をうけ、自らの生命を断ったのだ、と『平家』は言いたかったのだ。
夫を戦いで失った妻たちは、現代でも、多分、一度ならず一緒に死にたいと思うに違いない。が、さまざまの現実の問題 ── 両親や子供たちなどの存在がそれをさまたげる。『平家』はここでそうした女の心情を昇華させて流転興亡の歴史の一こまとしてうたいあげたのだ。
自殺は敗北かも知れないが、一つの決意である。この時代、たとえ夫が処刑されても妻子は命を助かるのが常だった。生きれば生きながらえる身の上にありながら、彼女はみずから死を選んだのだ。若妻の死を、春の曙の瀬戸内海を舞台に、『平家』は美しく描き出す。薄墨色の曉の世界と白い衣をまとった屍体と ── 極端に色の存在を拒否した死のドラマの美しさを十分味わっていただきたい。
「小宰相投身」の章はさらにこの後、彼女と通盛の恋のいきさつをつけ加えている。特にひらめきのある所でもないから簡単に紹介しておく。

小宰相はもと上西じょうさい門院もんいん(鳥羽天皇のかわいがっていた皇女)に仕える美人の女房で、たまたま通盛がこれを見染めたことを書いている。小宰相ははじめは返事もしなかったが、通盛からの手紙を上西門院にみつけられ、そのすすめによって夫婦となった。そのくらいだから二人とも相思相愛の仲だったと但し書きをつけている。
この恋の経緯は平凡で取り立てていうこともない。それだけに、この物語を後に付け加えた『平家』の作者は、なかなか賢明である。もしこの平凡な恋の経緯から始めたら「小督」や「横笛」と似たり寄ったりの話になってしまう。異常な戦争体験を始めにぐっと押し出しているところにこの章の迫力があるのだ。
さらに私の想像を付け加えるなら、多分この章は、はじめは身投げまでのももではなかったかと思う。それが次第に語り伝えられて行くうちに、現実の通盛や小宰相を知る人も少なくなり、彼女がどんな人間で、二人の恋のいきさつがどんなだったかを説明する必要が出て来て、後の部分が加えられたのではないか、という気がしている。